2017年10月7日

清涼なる大樹のあらんことを

リコ。水曜日は湖岸の散歩へ出かけました。湖岸から広がる原っぱには、萩、コスモス、ときどき藤袴。秋の花たちがやってきました。低く垂れこめた曇天と地平の間を、夕日が金色に染めていました。

リコ。私たちはなんで生きているのでしょう。毎日このようにして命が削られていく。すなわち死に近づいていく。だから私たちは、その日が来るまでに、自分が生きた価値を探さなくてはならない。そうでなくても、あの夕焼けの向こうで、世界のどこかの街で、誰かの命が「終わらされている」。それは明白な事実です。その明白な事実を、いつしか感じ取れないように頭を鈍らせ、忘れてしまう。それが大人になる過程の一部であるとしたら、少し悲しくないでしょうか。私は夕日が紫色の雲の中に沈んで、地平線の下に隠れるまで、いつまでもじっと見送っていました。

その時でした。私は夕日に照らされている山々を見たのです。西側からの光をうけて、尾根の西側は黄金色に照り輝いていました。その分、尾根の反対側はくっきりとした黒で縁取られます。脈々と波打つ、山々の連続。それは何億年まえに生を受けた、大地から生まれた生命のように見えました。その脇を、金色に染まった雲が、大きな白鳥のように広がりながら飛んで、霞んでいきます。夕日がつくった今日の最後の見ものでした。

私たちの生は謎に満ちている。死ななければならないのに生まれるという謎。しかし、この世界にいるからこそ、時々夢のような光景にであうことが出来る。それもまた、一つの生きる理由になるのではないかと思われたのです。願わくは、この世に清涼なる大樹のあらんことを。その下に集まる人びとが、この苛烈な日照りの中で、一時の安らぎを得られるような。大昔の僧侶のいった言葉です。

マコ