リコ。先日の水曜日は、天空を天使たちが飛び回っているような、晴れ晴れとした秋の空でした。風が天使の歌となって、街の人々の心を愉しませているような一日だったのです。
私は自転車でお堀に沿って走ったあと、お城の敷地にある喫茶室へ向かいました。その喫茶室は、明治に建てられた建造物を使っていると聞いて、前から行きたいと思っていたのです。喫茶室へ向かうのには、お城の大手門(正門とも言えましょう)ではなく、搦め手(後の門)とも言えそうな幅の狭い城門をくぐらなくてはなりません。紅葉のきれいな橋でお堀を越えると、落葉樹林に傘をしてもらった石畳の階段が続きます。歩いていくうち、樹林は高く高く空にのびて、木々の間から透けるような空が、ちら、ちら、と姿を見せていました。この辺りまでくると、空気まで違ってきて、私は鼻から静かに、胸いっぱいにいい空気を吸いました。それはダイヤモンドのもやのように爽やかに、清涼剤のように涼やかに、私の体を巡っていきました。
やがて黒松が斜にのびて、搦め手の城門があらわれます。これは珍しい造りのために、重要文化財として、後世まで遺されることが決まった遺構でした。私はその黒々とした石垣のあいだに、茎の長い、黄色い花がちら、ちら、と揺れているのに気がつきました。そうか、石蕗(つわぶき)の花が。私は思いました。赤ちゃんの両手のようにまるい、つわぶきの緑の葉っぱに、茎がすっと伸びて黄色い花が風に揺られているのです。私が石蕗の花を眺めているあいだ、何人かの人が城門をくぐっては、石蕗の花を愛でていきました。城門と石蕗。あるいは、永遠と一日。一日あるいは数日しか持たないはずの石蕗の花は、たくさんの人々の心を楽しませるのです。なぜ、私たちは時に、永遠よりも一日をいとおしく思うのでしょう。なぜ、私たちは時に、堅固な構造物よりも、か弱い存在をいつくしむのでしょう。それはおそらく、喜びが実際には一瞬、一瞬の産物であって、私たちが永遠や堅固さを崇めるとき、それは一瞬一瞬の恍惚が、たまたま持続的に続いているだけのことだからなのかも知れません。その持続が本来の最小単位である一瞬の喜びに還るとき、人は石蕗を見て小さな夢を見たりするのかも知れませんね。
マコ