2017年10月28日

『大地のマントを刺繍する』

リコ。この間、図書館で借りて来たアメリカの小説を読んでいます。その中でレメディオス・バロの『大地のマントを刺繡する』という絵画が作品の重要なモチーフとして登場します。

それは、塔のてっぺんに幽閉された六人の乙女たちが、監督官と思われる黒い男の指図で延々と布に刺繍を施しているのです。布は塔の下へと際限なく繰り延ばされていく。そこにある刺繍は、世界そのもの。乙女たちは、布によって世界を作っていたのです。その小説の主人公である女はこの絵の前で号泣します。その哀しみは「私の知りうる世界は、どこまで行っても私自身から一歩も踏み出していないのだ」という実感から来ているのです。乙女たちが繰り出していく布は、塔のてっぺんから下ろされる。そんな布で世界が出来ているとすれば、乙女たちはどこへいっても塔へ幽閉されているのと同じだ。そういうことなのです。

実はバロのこの作品は三部作となっていて、初めが『塔に向かう』、次が『大地のマント』、その次がまさに『逃走』という作品なのですから、『マント』の絵は決してポジティブな光景を描写しているのではない。

そう。それは分かっているんです。でも私は主人公のエディパとは違って、この絵にもっとポジティブな、建設的な含意を思うのです。それは、コーヒーを淹れている時にいつも私が感じていることであるのですが。

あの絵の中で、乙女たちの頭(あるいは心)の中にある「精神」は、外からは決して見えない。表現されなければ分からない、不可視なものなのです。人には見えない自我。それはこの世に存在してもしなくても同じものだ、と私は不安を抱きます。しかしささやかな労働(刺繍)によって、自分の払った労力が一つの物質と変わって、この世界を構成する一部となる。私は世界を構成する運動に、参加することになる。それは太陽や雲や、木々や草花の生成する運動と同じく、この世界を美しくする。いいえ、たぶん、私が謙虚であれば、美しくすることが出来る。だから私はバロの絵を見た時に、エディパとは正反対の感情を抱いて、勇気さえ沸いてきたのです。本当は誤読なのは、分かっているのですが。

人から見て、可視的なものだけが本当の私です。私が私の中だけで完結している私は存在しないも同然。だからこそ、大地のマントをささやかに、謙虚に刺繍する。私の労働が、この世界の一部をわずかでも飾るように。

じゃあ、またね。

マコ