2017年10月29日

雨のことを好きになってほしい

リコは雨は好きですか?私は好きです。例えば雨の日、窓辺に座って地面が濡れていくのを眺めている。しと、しと、と雫の音。今日は仕事を止めて、中でゆっくり休んでおいで。そう、神様がみんなに告げる知らせが雨なのです。小学校のころの私にとって、雨はそんな意味を持っていたのです(もちろん、雨だからといって学校を休んだりはしませんでしたが、雨の日の休憩時間、鉄棒に連なる雫、壁をはうカタツムリ、みんなの来ている黄色い雨ガッパは、私のお気に入りの風景でした)。

でも近頃、雨が嫌いになりつつあるかも知れないのです。それは主に、災害に関係しています。ここ数年だけでも、雨による水害そして山の崩れが幾度となく起こりました。そして悲しいことに、雨は人を殺しました。残された遺族の方にとって、雨嵐は忌まわしい記憶を呼び起こすものでしかないのかも知れません。この異常気象の原因は、おそらく人間にあるはずなのに、私たちは雨を敵と見做さなければならないところまで来ています。そしてその流れは、将来もっと強く。

小さなころ、夢のような時間を与えてくれた雨のことを、好きになってほしい。これが私の気持ちです。でもそのためには、これからますます強まっていくであろう嵐の被害に対して、ますます十全な災害対策を施していかなければならない。それが困難なことは分かります。リコ。私たちは不思議に悲しい時代に生まれたのです。

マコ

2017年10月28日

『大地のマントを刺繍する』

リコ。この間、図書館で借りて来たアメリカの小説を読んでいます。その中でレメディオス・バロの『大地のマントを刺繡する』という絵画が作品の重要なモチーフとして登場します。

それは、塔のてっぺんに幽閉された六人の乙女たちが、監督官と思われる黒い男の指図で延々と布に刺繍を施しているのです。布は塔の下へと際限なく繰り延ばされていく。そこにある刺繍は、世界そのもの。乙女たちは、布によって世界を作っていたのです。その小説の主人公である女はこの絵の前で号泣します。その哀しみは「私の知りうる世界は、どこまで行っても私自身から一歩も踏み出していないのだ」という実感から来ているのです。乙女たちが繰り出していく布は、塔のてっぺんから下ろされる。そんな布で世界が出来ているとすれば、乙女たちはどこへいっても塔へ幽閉されているのと同じだ。そういうことなのです。

実はバロのこの作品は三部作となっていて、初めが『塔に向かう』、次が『大地のマント』、その次がまさに『逃走』という作品なのですから、『マント』の絵は決してポジティブな光景を描写しているのではない。

そう。それは分かっているんです。でも私は主人公のエディパとは違って、この絵にもっとポジティブな、建設的な含意を思うのです。それは、コーヒーを淹れている時にいつも私が感じていることであるのですが。

あの絵の中で、乙女たちの頭(あるいは心)の中にある「精神」は、外からは決して見えない。表現されなければ分からない、不可視なものなのです。人には見えない自我。それはこの世に存在してもしなくても同じものだ、と私は不安を抱きます。しかしささやかな労働(刺繍)によって、自分の払った労力が一つの物質と変わって、この世界を構成する一部となる。私は世界を構成する運動に、参加することになる。それは太陽や雲や、木々や草花の生成する運動と同じく、この世界を美しくする。いいえ、たぶん、私が謙虚であれば、美しくすることが出来る。だから私はバロの絵を見た時に、エディパとは正反対の感情を抱いて、勇気さえ沸いてきたのです。本当は誤読なのは、分かっているのですが。

人から見て、可視的なものだけが本当の私です。私が私の中だけで完結している私は存在しないも同然。だからこそ、大地のマントをささやかに、謙虚に刺繍する。私の労働が、この世界の一部をわずかでも飾るように。

じゃあ、またね。

マコ

2017年10月27日

夕焼けは優しさ

リコ。あんまり秋の空が澄み切っているものだから、リコ、私はあなたのことを思い出します。天高くたなびく雲。リコはそこにいるの?

この時期の夕暮れ、妙に明るいなと思ってふと頭を上げると、窓の外は真赤(または橙)に染まり、その色づきがカフェの中にまで入り込んでいることがあります。そこでは夕焼けの絵筆がもの全体を撫で過ぎたように、青、緑、きいろ、全ての色の中に赤が混じり込むのです。壁際に這った濃い緑のアイビーも、どこか朱色がかって見える。

こんなとき、心の中で私は泣きたいような気持になります。太陽は誰をも見捨てないということが、夕焼けが色づけないものはない、ということから分かってくるからです。私たちはいつも、太陽にまもられている。栄養をもらったり、元気をもらったり。その太陽は優しく、全てのものを赤く照らすのです。まるで全世界が自分の子どもたちであるかのように。

マコ


2017年10月26日

薄やみの訪れるとき

リコ。私たちのカフェの営業は、朝の九時から夜の七時まで。朝はトンボの羽より薄くて透明な明かり。それが窓に射してきて、この季節なら涼しい風が入り込んできます。昼は川の水面。まっすぐに上った太陽の光をうけて、光の斑点がきら、きら、とうごめく。それから昼下がりです。太陽の光線にフィルムがかかったように柔らかになる。眠気をさそうこの時間帯に、カフェ全体がまどろんでいます。

しかしなんといっても、私が一番大好きなのは薄やみの訪れるときです。閉店近く、太陽が赤色に変わるころ、照明の行き届かないところが暗くぼやけてくるようなとき。そのとき人間らしい営みはひっそりと静まり返って、ただお湯の沸く音、時計のチクタク、店内のオルゴールの音だけが場所を囲い込む。アリスが不思議の国にいったのは、本当はそんな時刻だったのではないかと思うのです。薄やみの中、小さな洞穴の向こうに広がる不思議な世界。薄やみは、そんな不思議を漂わせながら、お客さんたちをやさしく包んでいくのです。

マコ

2017年10月25日

コーヒーの飲み方

リコ。お店のカウンターから、いろいろな人が見えます。そしてそれらの人々は、いろいろなコーヒーの飲み方をするのですよ。

コーヒーカップをかまくらのように身体でおおって飲む人、スマホカメラのシャッターボタンを押すように飲む人、コーヒーのあったかいところをお腹にあてて、深呼吸するようにゆっくり飲む人。

コーヒーの飲み方を見ていると、何か、その人とコーヒーの関係が見えてくるような気がします。言い換えれば、その人がコーヒーに何を求めているのか。例えば深呼吸をするように飲む人。ゆっくりコーヒーを飲むから、コーヒーが体中を巡っていくように見えます。そしてその人は宙に漂う光の結晶を追いかけている。育ちのよい植物が、土と、水から栄養をたくさん取り入れるように、彼女はコーヒーと音楽、それにカフェの空気の中から、元気になる養分を取り入れる。

そんな風にしてコーヒーを飲んでもらうことが出来るのも、バリスタ冥利のひとつ、という訳です。

話は少し変わりますが、今度の水曜日、トモコさんと夕日を見に行こうと思います。リコも知っているとおり、この街の水うみに沈む夕日は、大変有名でこの国の中でも有数の美しさを誇るのだそうです。私たちのカフェには、観光客もよくきて頂きます。そこでこの国でも有数の美しさを誇るというその夕日をあらためて見てみようという提案がもちあがったのです。定休日のカフェに二人で集まって、ドリップしたコーヒーをタンブラーに入れてもっていこうと思います。自然に囲まれて、コーヒーを飲むというのもひとつの方法。きっと、大きな夕日を前にして飲むコーヒーは身体を温めてくれて、ちぢかまった感受性の大きさを、元通りに直してくれると思うのです。そこで見る夕焼けは、私たちに何を教えてくれるのでしょうか。

マコ

2017年10月24日

街と灯台

リコ。家へ帰る湖畔の道からは、中心街の広がりが見渡せます。最近では、帰る時刻にはとっぷりと日が暮れていて、水うみの上に、赤い光、青、みどり、きいろ、色とりどりの光が、水面を境に上下対称に映って見えるのです。私はこの光が好きです。

光があるっていうことは、その下に人がいるということ。夜が、世の中の様々なものを覆い隠して、純粋に光だけの世界になる。光だけの世界になれば、それだけ人の気配というものが、色濃く映えてくるのです。だから、夜景をみると安心します。まるで、真っ暗闇の海の中で、灯台を見つけたときのように。この街には今日も、たくさんの人が暮らしているんだ。そうしてそれぞれのペースで、自分自身の生活を前に進めている。

大海原の灯台のような光の群れを見ているうちに、やがてそれは何か水中の生き物のような、大きな一つの生命体となって、一定のリズムで動き出すのです。それは人間という種のリズム。パッヘルベルの『カノン』を聞いているように、全身の生命が呼び覚まされるような、正直で前向きなリズムなのです。このリズムのもとに、私たちは前へ、歩き続けなければならないと思う。

夜景を見ると、いつだってそのように感じるのです。

じゃあ、また。

マコ

2017年10月23日

足すことだけじゃない世界で

リコ。昨日の夜、古書「冬ごもり」というお店に行きました。この街に雪は降っていないはずなのに、私は雪道をぎゅっ、ぎゅと歩いて、やっとたどり着いた明るいランプの家のように、そのお店を眺めやりました。ランプは入口に広くとった窓ガラスから路上に漏れて、そこだけが夢の中のような雰囲気を漂わせていました。

店内は、きちんと整理された本棚と真ん中にテーブルが一つだけ。石ころの転がる河川の川辺のようにさっぱりとした店構えです。テーブルではカフェもやっていて、店主さんによると、ここを本屋として利用する人とカフェとして利用する人の割合は1:9くらいだというのです。なんだか分かる気がします。同じカフェを運営するものとして、ここには外界とは違う時間の流れ方があるから。

私は「冬の本」という本棚の中に、好きなデンマークの作家を見つけたのでそれを買って、あとはコーヒーを飲みながら、その本をめくっていたのです。背後に雪の気配を感じたので振り返ると、びゅうっと秋風が吹きました。

そうしているうち、店主さん(それは若くて美しい女性でしたが)とも仲良しになって、読書会のお誘いをいただいたのです。それは街の中にある古民家の居間で、二月に行われる読書会です。「きっと寒いでしょうけれど、寒さは寒さのままで過ごしたいのです」と店主さんは言われました。しかも読むのは谷崎潤一郎の『細雪』。頭の中まで真冬です。私は今から楽しみになりました。

うちへ帰りながら、「冬ごもり」の店主さんの言葉を思い返していました。「きっと寒いけれど、寒さは寒さのままで過ごしたいのです」。そう言われた瞬間に、私の中で何かの荷が降ろされたのを感じました。苦痛は、排除されなくてもいいのだ。苦痛は苦痛のまま、それと一緒になって暮らす方法もあるのだと気づかされたのです。社会で生きていくことが苦手だといった店主さんは、一見この世界の辺境にいるように見えて、この世界の先頭に立っているのではないでしょうか。苦痛を苦痛として共に暮らす。雪と一緒に暮らす。まさに「冬ごもり」の生活を実践されているお方なのです。

今日はここまで。じゃあまたね。

マコ

2017年10月22日

陶芸家のつくるピザ

リコ。陶芸家がピザを作ると、どうなると思う?リコは見たことあるでしょうか。あの大きなモグラのような、段々とせりあがっていく登り窯。陶芸家は器を焼いて取り出した後、その余熱でピザを焼くのです!

今日、カフェの仕事が終わると大急ぎでその陶芸家さんのお宅へ向かいました。以前、とあるカフェで知り合いになった友だちが、「登り窯で焼くピザの会」に誘ってくれたのです。一緒に焼いたら美味しいかなと思って、チョリソーをお土産に、山道を延々と上りました。もの凄い場所へとナビが私を誘い、ナビへの信頼がほとんど消えそうになったその時、説明されたお宅が見えました。それは、暗闇の中の灯台のように、「帰っていい場所」を私に指し示してくれているように輝いていました。

一枚目のピザはもう焼けていて、他の皆で食べたということでした。しかし、二枚目のピザがすぐにあがると言います。そういえば、外の方から、小麦の焦げるにおい、トマトソースのにおい、そんないいにおいが漂ってきます。私たちは窯の入口まで行って、様子を見に行きました。しっかりと熱をもった窯の窓の奥に、今にも出来上がりそうなピザが見えました。先生(陶芸家さんのことです)は、平らなシャベルのような道具でピザを掬いとり、出来栄えを観察したあと、「無言の勝利宣言」をしたのです。

薄く延びた生地はカリカリに焼けて、トマト、ベーコン、ナスが生地の上でちょうどよく混ざり合っています。先生は庭に生えたバジルを指さし、私たちはそれを摘んでピザの上へ振りかけました。これで、出来上がりです。

さっそくテーブルに運ばれたピザは、八等分にされました。みんなでいただきますを言って、その一つをとって見ると、石の中で温められた芯のある熱量が、指の先から伝わってきます。ピザを、湯気と、そのいいにおいと一緒に食べてみると、なんだか大地に感謝したい気がしました。トマトにも、ナスにも、ベーコンにも、小麦にも。そしてそれを育ててくれた大地に、ありがとう。

作り手が見えるものづくりって、すごく大事だと思います。生地が延ばされ、具材がトッピングされて、窯の中へ入れられる。私が感じた窯の熱そのままが、ピザの熟成を助けている。そして、すべての工程の背後には、今日、このおいしさを作ってくれた大地がある。たった一枚のピザだけで、人をこんなに幸せにしてくれる先生は凄い!と私は思ったのです。

じゃあ、また。

マコ

2017年10月20日

ある修道女の記録

冷たい地下図書室の中をコツ、コツと歩いて、一冊の本に出会いました。それは岩かげに咲いた黄菫(きすみれ)のように、陽陰のうちにある陽だまりのように見えました。

その本には、十九世紀のアフリカ大陸のある港、貧民窟で奉仕する修道女の一生が書いてありました。あの忌まわしき三角貿易によって作り上げられた港湾都市には、多くの宿無し労働者たちや、そもそも働けない人たちで溢れていました。そこへ降りたった幾人かの修道女の中に、その一団を率いる女性がいました。これは、その女性の人生の記録だったのです。その港で商人をしていた男が、その修道女と知り合い本を書いたのです。

私は頁をめくるにつれて、彼女への憧れと興味をましていきました。彼女は(彼女たちは)ほとんど元手のないところから寄付を募り、自分たちで畑を耕し、自分たちの食べ物を賄うところから、人々のお腹を満たすところまで辿り着き、行き場のないような人々が憩えるような家(メゾン)を建てたのです。彼女は言います。「私の話した言葉、行った事がら、訪れた場所のうちで、誰かのためにならないものは、私の人生ではないのです」。また彼女は言います。「愛を行う最大の方法は、犠牲ということです。毎朝私は、それを自分自身に問わされています」。

私は彼女の人生におこがましくも自分を重ねていきました。確か、初めてバリスタを志したとき、私が考えたのは「誰かの心を安らぎで満たすこと」だったのです。彼女はそれを、自分一生の使命として、厳しく追及した。私はその姿勢に胸を打たれずにはいられませんでした。

まだ本は途中なのですが、「どうしてこんな仕事に従事できるのか」と書き手である商人が尋ねたとき、彼女が答えた言葉を記しておきますね。それじゃあ、また。

「世の中は私たちが思っているよりずっと悪い。私たちの力では変えることは出来ないし、また、世の中が変わると考えることすらおこがましいと思っています。でも人生は眼鏡を通した風景のようです。風景は変えられなくても、私の眼鏡なら簡単に変えることが出来る。すると不思議なことに、風景まで変わってしまうじゃありませんか?世界は変わらない。けれど眼鏡をかけかえることは出来るのです」

マコ


2017年10月19日

冬はつとめて

リコ。大陸の大気団が徐々に近づいてきて、冬の気配を感じずにはいれません。冬になると私たちは、お城の裏手、椿ケ谷へいって遊んだものです。

日曜日の朝、お父さんの車に乗せてもらって、私たちはお城へ向かいました。雪のせいで、橋はもう真っ白になっていて、手すりの上にある玉ねぎみたいな擬宝珠(ぎぼし)の上にも、こんもりとした雪の屋根が覆いかぶさっていました。その雪をとって、お堀へ投げてみる。固くなった水面は、私たちのような子どもの投げる雪玉ではびくともしません。投げた雪玉が星のように、くだけていくのを見ていました。橋を登り切ったところに、道に傘をさすように大きな落葉樹がせり出しています。それはなんとも言えず、不思議な枝ぶりをしていて、ある程度まで水平に伸び、ある一線に達すると垂直方向へ伸び始めるのです。ちょうど何かの若芽のように。私はその姿を、城山のもった大きな手のように思っていました。雪は枝の一本一本にすきまなく乗っかって、森は雪の姫の城、冬の彫刻のように見えました。

私たちは何をするのでもないのです。ただ椿ケ谷を散歩して(そこにはもちろん、真っ白になった椿が立っていました)、雪が自然を覆い隠すさまを眺めていたのです。朝の光線には、人間活動のちりやほこりが含まれていないから、あれだけ透明なのかもしれません。木々から漏れるガラスのように透明な光線が、雪をお堀のせせらぎを照らしていました。私はいつもより、視力がましたように、草の端の姿かたち、森の木々の枝ぶりまで、くまなく見渡せる気がしたのです。

それもやはり、冬の朝の光の魔法ということなのでしょう。じゃあ、また。

マコ

2017年10月18日

夕日が沈んでいく

あの日は二つに切り裂かれてしまった心の片側と格闘しながら過ごしました。でも、あの日はいつも以上に働いた。ただ、働くことしか出来なかったから。リコ。いまでは懐かしく、微笑みすら浮かべて思い出せる過去でも、あの当時は必死でした。本当に。「私が悪かったの?」、「でも、最大限のことはやってきたつもり」、「これは私の落ち度?それとも彼の心が小さかったから?」何度振り払っても、そんな「邪念」が湧いてきました。私はそれから逃げるようにして、彼と別れた(別れさせられた)翌日を働いて過ごしたのです。

リコ。それはちょうど、今くらいの季節でした。まだ私が会社員をしていて、この国で人口が一番多い街に住んでいたころの秋。街路樹は紅葉して、人間を置いてけぼりにするくらいに空は高かった。定時に上がったのに、もう日の暮れかかる時刻でした。コートを着込んで歩き出すと、さすがに泣けてきました。寒さを乗せた風と、ベージュに暮れかかる空が、私に告げるのです。「この空の下で、お前を気にかけてくれる者は一人もいない」。冷たい風が私の精神的な肉体を削り落としていくような気がしました。「この街で私がいてもいなくても、何の変わりもないことなんだ」。胸にぽっかり穴があいて、その穴を通り過ぎていく風は、私の傷口に痛みをもたらしました。私は変に笑って、「客観的」であろうとしました。「あいたた。さすがにこれは、痛いや。とっても悲しくて、とっても痛いや」。公園のベンチにすわって、立てた襟の中に顔をうずめました。私に明日なんてあるか知らない。あってもなくても、私には何同じだ・・・・・・。

その時でした。突風がふいてコートの裾をまきあげると、地面に落ちていた枯葉の数枚が、空に舞い上がりました。そこにはビルとビルの谷間に沈んでいく真っ赤な夕日。それはたなびいた雲を照らし、ビルのピカピカに磨かれた窓たちを照らし、私までをも照らしていました。それは今日の一日の終わりを告げるとともに、生き物たちの一日を、ねぎらっているように思えたのです。私は涙を流しました。

「そうか。どんな時でも陽は上るし、どんな時でも陽は沈んでいくんだ」。

これから夜が来て、また朝が来る。リコ。私は家族でいったキャンプを思い出していました。リコと二人で、薄の原っぱを歩いた記憶。それは夕焼け色に輝いていて、夕日を浴びた薄の穂たちは、雪の結晶のようにきらきらと輝いていましたっけ。「マコ、大きいねえ」。山の中に沈んでいく夕日を、姉妹はいつまでも眺めていましたね。耳に髪飾りの薄の穂をつけて。その日の夕食は、カレーライスとお母さんが焚き火で作ったパン。バターを塗って食べるとものすごく美味しかった。

みんな帰ってしまった公園のベンチで、様々な記憶が蘇ってきました。私はその日、夕食なのにトーストを焼いて、バターを塗って食べた後、ベッドに丸く眠りました。まるでテントの中のように、温かでやわらかなシュラフに包まれたように。

たぶんこれは、リコに初めてする話です。じゃあ、また。

マコ

2017年10月17日

私は水源のように

リコ。

今朝の朝もや。風に揺られるコスモス。開店の準備は、プランターへの水やりから始まります。窓の外に据え付けられたプランターからプランターへ、ジョーロで水をやっていきます。窓の下にはご近所の方が歩いていて「おはようございます」なんてあいさつして。

カフェに勤めていなければ、園芸店に勤めていたかも知れない。花の根っこに水をやるとき、腕に抱えたジョーロの水と一緒に、私の中の良心的な部分が注がれていく。その時間には、私は悪いことも嫌なことも考えず、ただ命の喜びを運ぶ人となる。このようにして、世界は少しずつ美しくなっていく。各々が各々のやり方で、各自の良心的な部分を世の中へ流していく。私は水源のように、この世界を愛で満たしたい。

今日はそんなことを考えました。

マコ

2017年10月13日

城門と石蕗(つわぶき)

リコ。先日の水曜日は、天空を天使たちが飛び回っているような、晴れ晴れとした秋の空でした。風が天使の歌となって、街の人々の心を愉しませているような一日だったのです。

私は自転車でお堀に沿って走ったあと、お城の敷地にある喫茶室へ向かいました。その喫茶室は、明治に建てられた建造物を使っていると聞いて、前から行きたいと思っていたのです。喫茶室へ向かうのには、お城の大手門(正門とも言えましょう)ではなく、搦め手(後の門)とも言えそうな幅の狭い城門をくぐらなくてはなりません。紅葉のきれいな橋でお堀を越えると、落葉樹林に傘をしてもらった石畳の階段が続きます。歩いていくうち、樹林は高く高く空にのびて、木々の間から透けるような空が、ちら、ちら、と姿を見せていました。この辺りまでくると、空気まで違ってきて、私は鼻から静かに、胸いっぱいにいい空気を吸いました。それはダイヤモンドのもやのように爽やかに、清涼剤のように涼やかに、私の体を巡っていきました。

やがて黒松が斜にのびて、搦め手の城門があらわれます。これは珍しい造りのために、重要文化財として、後世まで遺されることが決まった遺構でした。私はその黒々とした石垣のあいだに、茎の長い、黄色い花がちら、ちら、と揺れているのに気がつきました。そうか、石蕗(つわぶき)の花が。私は思いました。赤ちゃんの両手のようにまるい、つわぶきの緑の葉っぱに、茎がすっと伸びて黄色い花が風に揺られているのです。私が石蕗の花を眺めているあいだ、何人かの人が城門をくぐっては、石蕗の花を愛でていきました。城門と石蕗。あるいは、永遠と一日。一日あるいは数日しか持たないはずの石蕗の花は、たくさんの人々の心を楽しませるのです。なぜ、私たちは時に、永遠よりも一日をいとおしく思うのでしょう。なぜ、私たちは時に、堅固な構造物よりも、か弱い存在をいつくしむのでしょう。それはおそらく、喜びが実際には一瞬、一瞬の産物であって、私たちが永遠や堅固さを崇めるとき、それは一瞬一瞬の恍惚が、たまたま持続的に続いているだけのことだからなのかも知れません。その持続が本来の最小単位である一瞬の喜びに還るとき、人は石蕗を見て小さな夢を見たりするのかも知れませんね。

マコ

2017年10月7日

清涼なる大樹のあらんことを

リコ。水曜日は湖岸の散歩へ出かけました。湖岸から広がる原っぱには、萩、コスモス、ときどき藤袴。秋の花たちがやってきました。低く垂れこめた曇天と地平の間を、夕日が金色に染めていました。

リコ。私たちはなんで生きているのでしょう。毎日このようにして命が削られていく。すなわち死に近づいていく。だから私たちは、その日が来るまでに、自分が生きた価値を探さなくてはならない。そうでなくても、あの夕焼けの向こうで、世界のどこかの街で、誰かの命が「終わらされている」。それは明白な事実です。その明白な事実を、いつしか感じ取れないように頭を鈍らせ、忘れてしまう。それが大人になる過程の一部であるとしたら、少し悲しくないでしょうか。私は夕日が紫色の雲の中に沈んで、地平線の下に隠れるまで、いつまでもじっと見送っていました。

その時でした。私は夕日に照らされている山々を見たのです。西側からの光をうけて、尾根の西側は黄金色に照り輝いていました。その分、尾根の反対側はくっきりとした黒で縁取られます。脈々と波打つ、山々の連続。それは何億年まえに生を受けた、大地から生まれた生命のように見えました。その脇を、金色に染まった雲が、大きな白鳥のように広がりながら飛んで、霞んでいきます。夕日がつくった今日の最後の見ものでした。

私たちの生は謎に満ちている。死ななければならないのに生まれるという謎。しかし、この世界にいるからこそ、時々夢のような光景にであうことが出来る。それもまた、一つの生きる理由になるのではないかと思われたのです。願わくは、この世に清涼なる大樹のあらんことを。その下に集まる人びとが、この苛烈な日照りの中で、一時の安らぎを得られるような。大昔の僧侶のいった言葉です。

マコ

2017年10月3日

竹林と私

リコ。真暗い夜空に虫の声が漂うようになり、この国も、いよいよ秋という感じです。リコは秋が好きでしたね。「あの、生命のすべてが終わっていく感じ。人間、誰しも一度は死に向かわなくてはならないということを、しみじみと教えてくれる秋。マコ、そう思わない?」振り向いたリコの背景には、眩しいくらい色とりどりの紅葉。私には、決して忘れることの出来ない光景です。

この間の水曜日、お母さんと月光寺に行ったのですよ。それこそ秋の風景の映えるお寺です。そのとき、私は頭が重たくて地面に垂れ下がるほどに疲れていたのです。それというのも、その前の週末、トモコさんはイベントで別会場へ出張で、私は一人で仕事場を回さなければならなかったのです。実際にやってみて分かったのですが、カフェに勤めるということと、カフェを経営するということの間には、信じられないくらい大きな距離があるのです。その一日、私が提供する商品やサービスに何か不完全な箇所があれば、それは一重に私の責任なのです。トモコさんは毎日そんな緊張感を背負ってカウンターに立っている。それを知ったことは、私にとって大きな学びだったと言わなくてはなりません。というわけで、私は神経を消耗していたのです。

勘のいいお母さんは、そんな私を月光寺に誘ってくれました。あそこには、たしかリコとも行ったことがあったと思いますが、庭を見ながらお茶をいただけるスペースがあるのです。この街の城主のおかかえ庭師が設計した庭。真ん中に池があって、右手に松と紅葉がせり出すように池にかかっている。毛氈(もうせん)の上にすっと背筋を立てて座り、お茶を頂くと、気分がすっきりし静かな深呼吸ができるような気がします。昔の禅僧はこうして瞑想へ向かう準備を整えたのでしょうか。しかし私も神経過敏なものです。お母さんが用意してくれたこの舞台だけでは十分にリラックスすることが出来ず、さらにお寺の森を散歩してみることにしたのです。お母さんはもう少し庭を見ていたいと言いました。そこで私は一人、散歩へ繰り出したのです。

お寺の裏手は右手が上り坂の斜面になっていて、檜がずっと植わっていました。反対側の左手は、平坦な土地の上に竹林が広がっていました。私は竹林へ歩きました。そして竹林の中に入ると、空を見上げてみます。竹の葉擦れのする中に、ダイヤモンドの形に区切った光がちらつく。それは竹のすべすべした表面に反射して、森の中をエメラルドの光で満たしていたのです。私は太くて丈夫な竹に、身を持たせかけました。ハシっと枝の擦れる音がして静かなささめきが響きました。私の意識は、だんだん鮮明に、透明になっていくような気がしました。竹林と私。竹は大気中の酸素で、静かに呼吸している。でも酸素をもとめて上へ伸びる前に、まずは根をしっかり張らなくてはならない。安定した根の上にこそ、安定した幹が伸びていける。そうだ。私は竹林の中で、大きくうなずきました。

マコ

2017年10月2日

30分以内と49時間以上

リコ。あれから色々と調べてみました。最悪の事態、すなわちこの国が核攻撃されることを想定して、どのように身を守ればいいのかを調べていたのです。次に私なりの覚書きを書いておきましょう。これが、何の役にも立たないことを願って。それにしても、最悪の事態を前に、最善の手を尽くしておくことは無駄ではないと思うのです。願わくは、この国の一人ひとりが、自分のため、家族のために正しい知識を学びとりますように。

・近くで爆発があった場合、最初の一瞬を生きられるかどうかは、もう運にかかっているとして、そこで生き残ってからの話をしましょう。

・被災者は、30分以内に屋内(できればコンクリート造りで、地下室ならなお良し)に避難しなければならない。爆発後30分から数時間にかけて、最も放射線の多い灰が降る。

・それから、出来れば49時間以上、避難を続けなければならない。そのあいだの食料は、もちろん外気に晒されていないものにして。放射能は7時間で10分の1になる。だから、49時間経てば100分の1になる。

・爆心地から何百キロも離れた地域ですら、放射性物質は飛んでくる。だから、放射能が100分の1になる49時間を屋内(できればコンクリート造りで、地下室ならなお良し)で過ごすか、爆心地からの風がこない安全な地域へ逃げるか、その時の状況に応じて判断しなければならない。

・私はN99規格のマスクを買って、お母さんにもあげました。また、安定ヨウ素も買いました。成人で一回100mgから130mg(ヨウ化カリウム換算)が推奨される摂取量のようです。ヨウ素剤には、そのほか、妊婦さんのこと、ほかの薬との飲み合わせもあるので、ケースに応じて要確認です。

きっと、またね。

マコ