2017年5月23日

『小さき花のテレジア』

リコ。今朝はいつもより早く起きたので、近所の家のヤマボウシがもう花をつけているか(正確には真っ白いガクをつけているか)を見に行ったのです。朝の冷たさと、けぶるような靄の中をコツコツ歩きました。ときどき大通りを車が走って、ブウンという音が過ぎ去っていきます。私は四十間堀川(しじゅっけんほりかわ)まで来ました。そしたら、あっ、見つけた。堀川の表面の、朝靄の一層濃くなって広がっている上のほう、向こう岸の家屋の庭に、凛とした佇まい、ケヤキのように樹形の理想(イデー)を誇った姿の、ちょうど人の背丈くらいの一本立ち。白すぎて透明な印象のある菱の花をつけて、静かに祈る人のように、<法師>が佇んでいたのです。この花木には朝が似合います。その白い菱の花からこぼれ落ちる水蒸気は、堀川の微風にのって私の鼻先まで匂ってくるような気がしました。私はこの朝から、一日分の元気を吸い込んだのです。

昨日のよる、洋燈の下で、佐藤初女さん(はつめさん)を読みました。有名な方ですね。青森のある山の麓で「森のイスキア」を営まれていた方。亡くなる前に、私も行ってみたかった森のイスキア。でも、そんなことは許されません。初女さんは、この社会に疲れ切って声も出ない人たちを何も言わず受け入れておられた方。私みたいに、まだ、自分で解決できる者は、初女さんの大事な仕事を邪魔してしまうことになる。それに初女さんならおっしゃったでしょう。「何も私に会いに来なくても、立派な人が世の中にはたくさんいる。それに美味しい季節、季節の野菜や、花々。そういうものはきっとあなたに生きる力を与えてくれるでしょう。もし必要なら、絵画でだって。神様のお恵みは、いつでもあなたの目の前に差し出されているのですよ」神様への信仰をもたない私には最後の一文が分からないけれど(といっても、この文章自体が私の想像な訳なのですが)、花々の彩り、空の果てしのない青さといったものに心の底を突き動かされることは、たぶん初女さんのおっしゃる「神様のお恵み」なのだと思います。

びっくりしたのは初女さんは17歳から35歳までの間、肺浸潤という病気を患っていたのだそうです。ちょっと体に重みがかかるだけで肺の血管が切れて血を吐いてしまう。血を吐きながら、学校へ登校したこともあるのだそうです。17歳といえば、まだ自我が尖塔の先っぽでぐらぐら揺れているような時期。その年齢で血を吐くような病気をするということは、常に死という恐怖との同居であったかも知れないのです。初女さんはその時、一つの本、『小さき花のテレジア』という本にたくさんの勇気をもらったということを書いておられます。この修道女テレジアは、24歳で病気のため(おそらく肺病のため)に亡くなっています。それでも初女さんは、「どんな苦しい中にあっても神様への愛を見失うことのなかったテレジア」と言っています。

私は考え込みました。本を閉じて、天井を眺めて。「神様への愛を見失うことのなかった」人。たぶん私だったら、愛するよりも愛してほしい。だって私は、こんなに苦しんでいるんだから。青春の真っ最中で、まだ何もしていない!25歳の誕生日を、迎えることが出来ないかも知れない!もっと、もっと愛して、優しくして!私がテレジアの立場だったら、きっとそう言ってしまった。でもテレジアは、というよりテレジアの心境に思いを託した初女さんは、愛されることよりも、愛することを努めた。たとえ運命が、どんなに彼女に悲劇をもたらしても。その奥にいます神様を愛すること。そんな信念が、私にあるでしょうか!

愛しがたきものを愛すること。それは、人生の奥義なのかも知れません。

マコ