リコ。こないだ書いたタチアオイはすくすく伸びて、私の腰くらいの高さになりました。タチアオイは、男の子。小学生の男の子みたいです。一夏のあいだじゅう、立派に「気を付け」の姿勢を続けて、両手に赤や白や、大きな帽子をいくつも抱えているみたい。その帽子のような花は、地面に近いところから開花し始めて、先っぽが咲き始めると、もう、夏も一段落といった風情なのです。
リコは覚えていますか。我が家の夏の恒例行事だった夏のキャンプのこと。真っ白なオーガンジーが降って来たみたいな明るい湖の畔で、二日と半分楽しく過ごしましたね。森に囲まれた湖は、山を染みわたる地下水脈のおかげで、いつも新鮮な水が湧き出していたから、私たちは水着をきて、浅瀬で水遊びをすることが出来ました。空と山の恵みである透明な水が、リコのふざけて躍らせた指の先で、きら、きらと輝きましたね。
あのときの湖の百倍はあるこの街の水うみの畔を走りながら、私は夜景を眺めていました。ハンドルを握りながら、思わずはずんでしまった、トモコさんとの仕事の話を思い出していたのです。トモコさんの話には、熱が入っていました。普段、事務的な話はよくするし、する必要があるんですけれど、今日のように自分がなぜバリスタをやっているのか、という話は話せるようでいて、なかなか話せない話題で、私にはとても貴重な一日でした。帰る時間が遅くなることを苦にも思わず、私はトモコさんとランプ一つ灯して、いつまでも語り合っていたのです。
トモコさんがなぜバリスタになったか、というよりなぜカフェを経営しているのか、については以前なんとなく聞いたことがあったのですが、その一部始終を(というのはトモコさんに失礼かも知れません。だって、言葉以上の感情がトモコさんの胸にはまだ伝え残されてあるのですから)聞いたのはこれが初めてでした。トモコさんは悩んでいたのです。ご自身では「病んでいた」とも言われました。それで、なにもかも手につかないから、ぶらぶら歩いて、カフェに入る。それで、考えても状況の変わらないような内容のことを何度も何度も考える。そういう日々を過ごしたのだそうです。そう言ってトモコさんは、ギュッとまかないのコーヒーカップを握りました。そういう日々を過ごしていると、だんだん入るカフェが決まって来る。そこに座ってコーヒーを飲んでいると(そこは奇しくも現在のカフェ・クッカと同じく川沿いのカフェでした。トモコさんは川に縁をもっているのです)、こんがらがった考えが波の静まるように穏やかになり、あるいは川の流れるように清らかになり、自分本来の価値観で、心から「好き」なことと「嫌」なことを見分けられるようになる。それは、今ではカフェ・クッカの理念(クレド)にもなっている、「自分に還ることが出来る空間」であったのです。自分に還ることで、トモコさんは自分の道を見つけた。それと同じ効果を、ここへくるお客さんには感じてほしい。そうトモコさんは言いました。その口から流れ出た言葉は、私の耳よりもお腹の中へ、ぐっと入っていったのです。
私にとって、バリスタとは何なのでしょう。私がこの世界を志すきっかけになったのも、やはり一つのカフェでした。まだオフィス勤めのころ、仕事が終わってはよく立ち寄ったカフェがありました。ジョン・レノンの『イマジン』を店の名にもったカフェでした。以前にも話しましたね。私は資本主義的な社会(と、私が勝手に考えている世界全般の仕組み)に馴染めない性質(たち)だから、よくそのカフェへ、水泳競技者が息継ぎをするように、一息つきに来ていたのです。そのカフェの存在によって、なんとかオフィス勤めを全うしていたといっても言い過ぎではなかったのです。そのカフェには、上質な豆があり、店主さんの丁寧な焙煎とドリップによってカップ一杯の滋養ある液が出来上がる。それは、そう、あのリコと過ごした夏の湖が、空と土に祝福された湖一杯の滋養ある液体だったのと同じように、農園の陽射し、コーヒーの木の栄養、幾つにも亘る職人たちの勤勉、それらを運んで、私に一杯のコーヒーを味わわせてくれたのです。それは店内の調度品や流している音楽にも言えました。上質な素材を使って、丁寧に作られたものと音の空間。この「資本主義的な社会」のうちにも、星のようにきらめくものが隠されているのかも知れない。そう思わせてくれるのが、そのカフェだったのです。
バリスタにとって一番重要なこと。それはそれぞれのバリスタにとって違って当然のことなのでしょう。でも私にとってバリスタにとって一番重要なことは、豆にしろ、空間にしろ、上質なものを上質なままでお客様に提供すること。それは、この世界が「生きるに値する」ものであると、思い出してもらうためのことなのです。子供のころの私たちに力を与えてくれた大きな湖とは違って、私が運べるエネルギーはたった一杯のコーヒー。もしかしたらデミタスカップくらいの小さなものかも知れない。でもそれが本当に美味しければ(つまり世界が生きるに値することを思い出させてくれるものであれば)、今よりもっと沢山の人たちが飲みに来てくれると思うのです。私はそれに賭けたい。実現しもしない空疎な大論を描くよりも、私はそれに賭けたい、そう思うのです。
最近リコとの小さなときの思い出を振り返ることが多くて楽しい。
マコ