2017年5月11日

一人で光れない人たちのために

リコ。満月がきれいでした。月の灯りで青白い空には、飛行機雲のような薄い雲がかかって、雲の水平線の中へ、月が沈んでいくように映ったのです。

私はいつでも、月のようなものが好きでした。例えば夜空や、生き物の気配のしない冬の雪原。きらきらと輝く太陽のようなものたちではなく、深く、静かに潜っていくものが好きだったのです。

小さい頃、お絵描きをするとき、私はいつも三日月の夜空を書きました。リコは南の国の太陽でしたね。三日月には魔女が似合うから、私はよく魔女も描きました。そして黒猫も。黒猫を連れた魔女の映画が流行った年のクリスマスには、私は黒猫のぬいぐるみをもらいました。リコは、胴体が空洞になって人の乗ることが出来る猫のバスをもらいましたね。私はその黒猫をとっても大事にして、映画で出て来たとおりの名前をつけ、お風呂に入れてやっては、縁側の新聞紙の上に立てかけて乾かしたものでした。今、二つのぬいぐるみはあの時の気持ちを思い出させるものとして、私の部屋の箪笥の上に、大事においてあります。おおらかで、いろんな人をどこまでも運ぶ明るい猫と、魔女に養われる物静かな猫というペア。

月というものには、不思議な性質があります。自ら光っていながらその実、他人の光がなくては光っていくことが出来ないのです。半面だけに光を受けているから、角度によって半月に見えたり、三日月に見えたりする。誰かに照らされつつ、その光を次に伝えるという存在。私が月を好きな理由は、多分そのあたりにあるのです。リコは、子どもの頃から太陽のようで、猫のバスが妙に似合いました。私はそうではなかった。いつもリコや、そのほか太陽の世界に属する人たちの光を受けて、やっと生きている存在だったのです。

一人で光ることの出来る人には、やはり太陽のような役割があります。この国の一番の神様が太陽の神様であるように、太陽はこの世界をあまねく照らさなければならないのです。

しかし、一人で光れない人たちのために、私は思うことがあります。自分で光れないということは、果たして「弱きこと」だろうか。自分で光る人は、その「個性」を燃やしているのです。しかし一人で光れない人は、自らは「鏡」となって、自分ではない、場合によっては「個」よりも大きなものの輝きを伝えることが出来るのです。大自然の輝き、豊かな人の心ざし。そういうものに照らされて、「間接的に」それらを世界に映し出すこと。それが一人で光ることが出来ない人に与えられた、大きな役割だと私は思うのです。

マコ