リコ。今日は珍しく、汽車の中から手紙を書きます。イベントがあってね、その手伝いにいっていたの。ちょうど読みたい本があったから(リルケの「神さまの話」という本なのです)、交通は汽車でした。イベントは大盛況で、出店者もお客も、各々がおのおのの役割をしっかり楽しんで、なにか、ひとつの村が生まれたような感じでした。
帰りはずっと眠るつもりが、妙に目が冴え、暗闇に投げ込まれていく景色ばかり見ていました。今日という日を楽しんだ人が、世界に何人いただろう。私はそのように考えてしまいます。私はただの私じゃなくて、地球の上に立った私。だから、世界の全ての人と繋がっている。私はそのように考えるのです。例えば今日、砂漠の中の一国で、どれくらいの銃弾が飛び交ったろう。あるいは、運転手のただの誤作動のために、どれくらいの人が牽き殺されただろう。私はそう考えるのです。これはひとつの、強迫観念なのかも知れません。
この強迫観念は、私が中学校くらいの時から私の中で育っていきました。学校で貧困のことを習う。あるいはニュースで悲惨な事件が報道される。本当は私たちはそれを悼み続けるか、忘れるかの二択しかない。都合よく同情しながら、その必要がないときには都合よく忘れる。そういう最も卑しい態度は選択肢としてはありえない。そう思ったのです。そうして私には究極の二択が残されました。一つは、外側の出来事はすべて忘れて、自分だけの自由を楽しむか。だって、人間はそんなに世界のことを考えるために作られてはいないんだもの。もう一つは、まるで修道僧のように世界のために涙して、祈りを抱き続けること。そのどちらもが私には大変難しく思えました。私はそんなに軽々しくもなければ、誠実でもない。一先ず、自分のことだけじゃなくて、私は世界と繋がっていることを感じながら生きてみよう。私は思春期を通じてそんなことを考えていたために、それは一つの強迫観念になってしまったのです。私が世界とどう向き合うことが出来るのか、考え続けて10年になるのです。
世界は暗闇でした。それはあたかも、夜汽車から見える景色のようです。その中で、人間に出来ることとしなければならないことは、あの、ときどき浮かんでは過ぎていく街灯のように、自分の周りを少しだけ照らすということなんじゃないかと思うのです。それが10年の結論です。おそらく、いえ、たしかに、人間は世界のために胸を傷めるようには出来ていない。むしろ食べて、恋をして、生むために出来ている。だけどメディアのお陰で世界の全貌が明らかになった私たちにとって、恋も食べ物も覚束ない人たちを脇に置いて騒いでいるのは、胸の寒々しくなるような行いなのです。かといって私たちは、世界に責任をもつように作られている訳でもない。ただ出来ることは、夜汽車から見える街灯みたいに、身の周りを照らすこと。それとも夜空の金星みたいに、暗闇の中に輝く一点の光であること。
その明るさを、絶えず押し広げていくことが、私にとって生きるということなのではないかと思うのです。それは一杯のコーヒーから始まります。一つの幸せを、毎日誰かにプレゼントし続ける。それが私のなかで、一番しっくり来るやり方です。
長くなりました。今日はこの辺で。またね。
マコ