リコ。春は一進一退。でも、晩方、6時なのにまだ明るい感じや、夕日に雲のかかる感じ(冬の雲は真っ黒い綿あめのかたまりのようで、春の雲はもっと軽やかなのです)から、春の兆しを感じます。もうじきすれば、各々の庭へ、原っぱへ、山々へ、順々に春はやってくるでしょう。
また私の強迫観念が出ました。生活を苦にして、自殺した人のニュースをやっていたのです。それは一人のおばあさんで、おじいさんに先に死なれ、少ない年金だけで生活していた。「寂しいので、これ以上の生活は続けたくない」と書いた紙と一緒に、おばあさんの死体が発見されたのは昨日のことでした。私は、やみくもに、自分がおばあさんの死に責任を負っているように感じました。この社会が、そういう人たちをキャッチし切れていない。それはこの社会の恥だと、そう思ったのです。
おばあさんを殺したのは、もちろん経済的な問題だけではなかったと思います。貧乏よりずっと高貴な清貧な生活というものだってあるのですから。問題は、その清貧な生活へ向かうだけの原動力をおばあさんが持てなかったということ。あるいは、生命力と言い換えてもいい。そうしたものを、おばあさんが持てなかったし、社会としておばあさんに与えられなかったということだと思います。
どんな困難にあっても、無前提に生命を信じる力。それが必要です。それは、自分だけの世界をもつことではないかと、今の私は思っています。前にも話したでしょ。私たちのカフェに、週に一度だけやって来て、ものすごく清潔に、きれいに着飾ってお茶をしにくるおばあさんのこと。彼女には彼女のポリシーがある。この世界の中で、一人で生きていくだけのルールと気品がある。そうしたものが、寂しいながらも、彼女を支えているのだと思います。また、何か特別に大好きなこと、植物を育てるとか、編み物をするとか、文章を書くことだとか。自分の働きによって世界が少しだけ変わるような、そんなものを持っている人は強いと思うのです。それで、この乾燥しきった世界の中に、小さな泉を持つことが出来る。苦しくなったときは、いつでもそこで喉を潤すことが出来る。たとえそれが、マッチ売りの少女が灯す明かりのように、か細くはかないものであったとしても、その重要性は少しも減じることがないと思うのです。もともと私たちの存在は、か細く、弱いものなのです。にもかかわらず、永遠を信じ、希望を捨てない存在が、私たちというものだからです。
私は真剣に、カフェを運営します。そこが誰かにとって、「自分だけの世界」になりうることを願って。
それでは、またね。
マコ