2017年7月6日

洪水の中で

リコ。色彩の試験を受けるといいながら、こうして手紙を書いています。私の年齢がリコに追いついた日から始まったこの手紙も、もうすぐ一年。書く日もあれば、書かない日もあったけれど、リコへの手紙は、私の日常のリズムに組み込まれてしまって、もう書かずにはいられないのです。

今、この国のある地域で未曾有の大雨が降って、地盤は崩れ、川は氾濫し、道路は寸断されています。まるで一つの終末絵図のようなあり様です。そう、本当にノアの洪水のような。

このような、世界のどこかで誰かが苦しんでいるという状況で(といっても、それこそが世界の常態なのですが)、私はいつも、ある冷たい哀しみに襲われます。もし自分がその災厄に直接関わっていないとしたら、ほとんど全ての同情は体のいい偽善でしかないのです。その浅はかさに、哀しみを感じるのです。例えばテレビで、被災地の状況が報じられます。キャスターは深刻そうな顔をして「どうか皆さんが無事であることを祈ります」と言います。視聴者もそれに同調して、深刻そうに被災地のことを思う。だけどその数分後、テレビではプロ野球の結果がにぎやかに読み上げられ、さっきの同じキャスターが「〇〇投手、3連勝です!」なんて、ニコニコしている。お茶の間の雰囲気もそれと同じで、被災地への同情はもう、忘れられる、「もし自分がその災厄に直接かかわっていないとしたら」。もし本当に被災地のために胸を痛めるとしたら、仕事を投げうってでも、とにかく現地にいって、貯金を削りながら、復興の目途がつくまで働かなければいけない。それが出来なければ、その地域がもう大丈夫だとなるまで、信頼できる機関を探して、毎月送金しなければならない。本当に誰かを救いたいのなら、それだけの覚悟、息の長い覚悟が必要なのに、たった一時の薄い同情で、善人を貫いたような顔をしている。それが偽善だと私は思うのです。私の冷たい哀しみというのは、この偽善の底に横たわっているのです。本当はみんな、そんな聖人にはなれないのです。自分のことを全うするだけで精一杯で、誰かのために献身的態度を持続することは、精神的にも、物理的にもほとんど不可能なのです。この世界の洪水の中で、私たち一人ひとりが乗っているボートは、はるかに小さい。自分一人くらいしか乗せられない、哀しくて寂しいボートなのです。

十年ほど前、山火事を消すために飛び回ったハチドリの話が流行しました。その話はこうです。ある日、森で山火事が起こります。小さなハチドリのクリキンディは、その小さなくちばしでひとしずくの水を運びます。何をしているの?周りの動物は聞きます。火を消すの。クリキンディの答えに動物たちは大笑いします。でも、とここがこのお話の一番重要な部分なのですが、クリキンディは答えるのです。「私は私に出来ることをやるだけ」

私はこのお話を哀しく思い返します。私たちは洪水の中の小さなボートなのです。クリキンディは、山火事を消そうとする。でも山火事はそんなことで消えるほど、甘いものではない。それこそクリキンディのひとしずくは、とたんに「洪水」に呑み込まれてしまうだけです。それを知らないクリキンディが、あるいはそれを知ってなお挑みかかろうとするクリキンディが哀しいのです。

この世界に住む私たちに、洪水は止めることが出来ない、というところから始めなければなりません。そして、遠くの人へ、叶いもしない(偽善的な)祈りを捧げるかわり、私たちは自分たちのボートを拡げることを考えなくてはなりません。それは私たちの半径一メートルから始まるのです。そうして自分たちの生活の中に、どうにか息の出来る空間(スペース)を広げていく。それが「私に出来ること」の本当の意味だと思うのです。

マコ