2017年7月3日

美の耕作者たち

リコ。今日、久しぶりで早起きしてしまいました。梅雨の空気は体育館のマットのように重く、私たちの頭の上へ延べられてしまいました。せめてさわやかな朝を感じられはしないかと、近くのお寺の清涼院と、そのまわりを散歩したのです。仏教で、「清涼」とは「救い」を表す意味なのだそうです。たしかに時々空から炎が降ってくるようなこの世界には、「清涼」とした場所が必要なのかも知れません。

モスグリーンの石畳を歩き、清涼院の門を出ると、近くの小学校をとおり過ぎて帰りました。すると、校庭にそった躑躅の垣根の、ずっと前の方にうごめく影が見えました。なにか地面に穴を掘る人のような、そんな動く影でした。こんな朝早くから、いったいなんなのだろう。私は訝りながら、垣根に沿って歩きました。その影がはっきりしてくると、それは一人のおばあさんだということが分かったのです。躑躅の垣根の一角に、ひまわりが植わっていたのです。花はまだついていなくて、葉っぱだけでは瑞々しいとも美しいとも、なんとも言われないひまわりです。おばあさんは、そのひまわりに支柱を立ててやり、ビニールタイでひまわりを支柱にもたせかけていたのです。「おはようございます」。私は思わず言いました。こんな朝早くに、自分のものではないひまわりに、手をかけている人がいるなんて。誰にも見られずに。誰にも知られずに。私はなんとも言えず、感動してしまったのです。

世界はきっと、そういう風にして少し少し美しくなっていくのだと思います。

この世の中には、誰もに開かれた美の田園が、姿を隠すようにして存在しているのです。それは人々の記憶の中に、あるいはそれを暗示する様々な美の断片として。それは本物の自然がそうであるように、人々の心を豊かにする田畑なのです。そういうものを言葉に現すのが詩人だし、それを土の中から掘り出すのが陶芸家であり、家々をその収穫物で満たすのが花屋さんなのです。そして今朝のおばあさんも、小さな貢献者として、そんな美の田園を耕していたのです。

今日も街のどこかで、美の田園を耕す人たちがいる。そういう人たちが存在していると知ることは、私に勇気を与えてくれるのです。

マコ