2017年6月25日

馴染みにくい世界で

リコ。この前の水曜日、ひさびさに実家へ帰りました。その花々に囲まれた裏庭は私たちの絶好の遊び場でしたね。ちょうど今時分、クチナシの垣根に白々と花が並んで、お母さんはその花びらを綺麗に洗って、私たちの冷たいお茶に、はら、はらと落としてくれましたね。その僅かな苦みは、薬草を飲んでいるという気分にさせてくれましたし、あの夢に誘われるような甘さが、唇の中にすうっと入ったものでした。シロツメクサの冠があれば尚よかったのですが、その時たしか、お父さんがもう刈り込んでしまっていたのだったと思います。近頃では、庭園の一部が菜園に変わっていて、季節がら、茄子、キュウリが植わっていました。自分で作ると美味しい気がすると、お母さんは言っています。私はお母さんの手伝いとして、庭の水やりをしていました。すると、クチナシの垣根の傍に小さな白いあじさいが見えて、花は(といっても本当はガクなのですが)まだつき初めのころでした。花の輪郭の外側だけに、触れれば融けそうに透明な花がついて、まん中はまだ蕾です。たくさんの蕾をたくさんの茎が行きかい、交差して支えています。蕾が星で、茎は星々を結ぶ線のよう。私はそこに、星座のかたまりを見ていました。あるいは季節を間違えた、雪の結晶を。

今日は日曜日ということもあって、カフェ・クッカは朝からたいへんな忙しさでした。一度、オーダーを通すのを忘れてしまって、一組ずいぶんお待たせしてしまったほどです。そのお客さんはおとなしそうなカップルで、窓際の席で川を眺めながら、のんびり待って下さって、こちらでのお詫びに、気さくに応じてくださったのでした。カフェの仕事は見た目より簡単な仕事ではありません。いえ、どんな仕事にも「変わりなく」、大変な仕事だと言った方がいいのかも知れません。でも戦場のような一日を終えて、トモコさんと一緒に、ふうと一息つくとき、私はやっぱりバリスタの道を選んでよかったと感じるのです。

大げさに言えば、私はこの世界に馴染めないのです。生きるためには、仕事をしなければならない。昔はその仕事が、農家なり職人なり、人の生活に密着していた。でもいつごろからか、私たちは人間というよりも、社会という機械じみたもののために仕事をするようになった。そこでは、ひと一人のする仕事は、他のたくさんの人のする仕事に紛れて、分からなくなってしまう。ベルトコンベアーの作業員は、まさにこの場合に適切な例なのです。たとえば今月百万円相当の製品を作った、といえば、なぜだか自分が、その百万円の一部分のような気がしてくるのです。私の髪、私の手、私の胸はそこにない。どろんと煙りが上がって、さびしい数字が残っているのです。これだけ経済を大きくしてしまった私たちには、「そういう仕事」も必要なことは、分かります。だけれど私は、自分を機械の部品にすることができなかったのです。全部、とはいかないまでも、なるべくものごとの初めから終わりまで、人間に手の届く範囲で仕事をして、お客様にお届けする。そういう仕事がしたいと考えたのです。

OL生活の三年目、私はそういうことを考え始めました。そしてトモコさんと出会います。でもその話は、また別のときにしましょうね。

じゃあ、またね。

マコ