2017年6月20日

朝つゆの小径

リコ。私の家から西へ西へ歩いていくと、清涼院というお寺があります。裏山が天然の雑木林で囲まれて、お寺の中では、鳥の声ばかりが聴こえるというような、とてもひっそりとしたお寺なのです。今朝、目が覚めると時刻は五時で、トーストの焦げ茶、紅茶のひとしずくのように茶色な雲のたなびきの下で、街はしんとしていました。私は出勤時間まであと四時間あると計算しました。するといい考えがうかんだのです。清涼院まで散歩に行こう。生活は、いつだって旅であるかも知れないのです。きっかけは、ほんの些細な思いつき、ことの運びの加減によって。

清涼院は人々の生活の音から切り離されたように、静かな森に囲まれていました。鳥たちの鳴き声を追いかけて、左に右に、声の主が移動している様子が聞き分けられたのです。空は薄墨色の雲に蓋をされて、梅雨がもう、来そうなことを告げていました。そういえば、大気の中にダイヤのように混じった水の気が、皮膚の上に感じられて、森の冷気で冷やされた空気は、寝起きの頭に気持ちよく触れました。私は鳥のように、境内の生き物の一つとなったように、じっと影の中に耳を澄ませていました。

寺院の裏手に回ると、孟宗竹の樹林があって、朝つゆに濡れた小径がゆっくり曲がってやがて寺院の入口に回る裏道になっているのです。枯れ草色になった竹の葉のクッションを歩くと、ときどきぎゅっとくぼんで水が出て来るところがある。そこは地下水の通り道になっていて、そこに紫陽花が植わっているのです。まずはカシワバアジサイ。私はこの花を見る時、夏の花火を思い出します。どんと大きく打ちあがる菊の花ではなくて、白い星々をまき散らしながら、ある方角へ撓(たわ)んでいく花火。それが、ひとすじ、ふたすじ、幾すじも、株の中から打ちあがっているようなのです。そしてむらさきの紫陽花。これはまだ、開花の時期には早くて、紫陽花のあのまん丸の、外側だけが開いている。それもまだ一輪か二輪だけがついている。これから梅雨が来て、この紫陽花たちが満開をむかえ、梅雨が明け、打ち上げ花火の夏が来る。花々の変化をみていると、そういう季節の移りかわりを、確かに感じることが出来るのです。そう、この地球全体が、明日に向かって行進(マーチ)を奏でているし、それにはこの私自身も含まれている。

こんな清々しい朝。楽しい朝。それを過ごせるほどこの街が自然に囲まれているということを、幸運だと思わなければなりません。いえ、これは自然が為すままに作り上げた景観ではなくて、長い年月をかけて作られた「人工の庭」なのです。こうした「人工の庭」がいつまでも残っていること。この街に自然が必要であると考え、生活の中に自然を取り入れた人たちが、何代も何代も、途絶えることなく居続けたということ。それは、考えるだけでじんわりと勇気を与えてくれる事実なのでした。

こうして私は、新しい朝を始めたのです。じゃあ、また。

マコ