リコ。先週末の土曜日、それは旅のような土曜日でした。仕事が終わって、水うみの水平線(といっていいほど大きな水うみなのです)に落ちていく太陽を背に受けながら家へ帰り、私は映画を見に行きました。「色を区別できない目をした写真家」のドキュメンタリーでした。映画が終わって、お店の前でがやがやと、人々が自分の感じたことをみんなに言ってみたいと思っているころ、外は星空でした。星を便りに行き先を決めたかつての航海士みたいに、星の中を駅前通りまで歩きます。そこに夜の十一時までやっているカフェがあって、私はそこで、映画のことを考えてみることが出来ると思ったのです。ついてみると、お客は年配のご夫婦と思われる二人だけで、手をとられない店主さんと私は映画の話をしました。映画の場面をときどき思い出しては、カフェの中の、オレンジや深みどり色にぼんわり光るランプが、特にあざやかに見えたのを思い出します。そしたらなんと、先に入っていたご夫婦も、私と同じ会場にいたのです。だから、私と店主さんの会話の単語、単語を拾い上げて、「あの映画」の話をしていると思われたのです。その日の客は、それで全てでした。私たちはお店の終業時刻まで、写真から、かつて訪れた森の湖の美しさ、絵画、歴史とさまざまに話をしたのです。「不思議な縁ですね」帰られるとき、旦那さんの方がにっこり笑ってそう言い、私たちは別れました。私たちは、さまざまなもの、たくさんの人に出会うために生まれてきたのでしょう。
旅は続きました。私は駅前どおりから、ケヤキ並木に入り、寺町をぬけて天神さんの前へ来ていました。街の光からふっと離れて、星々が急によく見えました。車の一台も通らない静かな道の上。私は耳を澄ませて、境内に危険がないかどうかを確かめたのです。遠くのほうから、水うみをわたる船の警笛が響きました。それで私は天神さんの鳥居をくぐり、お宮の中を進みました。拝殿で手を合わせ、誰のために祈るともなく祈りを上げます。そのときリン、と小さな鈴の音が聴こえたのです。私は振りかえって、暗闇に目が慣れるまで、そのおとのするほうを見つめました。猫でした。目が慣れて、月光に照らされた猫が、地面にべったりおなかをつけて、時々こちらを見ながらすわっているのです。私はつい、彼女(ただ、そんな気がしただけです)のほうへ歩いてみました。一度逃げると思うと、またすぐにすわりました。結局猫は逃げずに、私たちは並んで、天神さんの境内にふたりすわっていたのです。こうしてとなりにすわっているだけ、さわるのまではしまい。そう思いました。猫は時々私を見上げて、すぐにまた、何かを眺めていました。柔らかそうな頬毛に包まれた宝石のように透き通ったひとみ。いつしか私は、そのひとみの射す同じほうへ、視線をなげかけていたのです。私たちはいつ終わるともなく、この夜を見ていました。いったい猫ちゃんは、どのくらいの時間、こうしていられるのだろう。私には明日があります。明日の予定があって、それが今という時間をどこか、限りのあるものにしている。でもリコ、この猫はそういう風には見えなかったのです。猫のひとみの中には、今だけが輝く。昨日、今日、明日と流れていく時間の川の中で、彼女はいつも、しっかりと今だけを、強く、どこまでも深く握りしめている。そんな気がしたのです。
静かな夜。チ、チ、チとどこかで虫の声がします。月光はひのきの木々のあいだを縫って、地面にジグザグの影をつくりました。飛んでいく白鳥のようなカシオペヤが、星々のあいだに翼を広げているように光りました。その星座は、私たちが昔好きだった物語の世界へ、私の意識をさそっていきました。「カシオペイヤ」。未来を予知できる小さな亀、そして勇敢な女の子。二人は時間を盗む悪党たちと対決し、古い友だちを救い出す。時間にケチな、忙しがり屋の悪党たちの見張る街で、ちょうど綿密に張られた網の中の、ぽっかり空いた穴のような、「誰にも見つからない時間」の在り処を予言するのは、カシオペイヤ。そのカシオペイヤの役を、今夜、ある猫が引き受けてくれた。私たちは時間の穴の中にいました。そんな穴のなかに隠れ込むために、人は旅をしもし、また、生きているのかも知れません。
じゃあ、またね。
マコ