2017年6月25日
馴染みにくい世界で
今日は日曜日ということもあって、カフェ・クッカは朝からたいへんな忙しさでした。一度、オーダーを通すのを忘れてしまって、一組ずいぶんお待たせしてしまったほどです。そのお客さんはおとなしそうなカップルで、窓際の席で川を眺めながら、のんびり待って下さって、こちらでのお詫びに、気さくに応じてくださったのでした。カフェの仕事は見た目より簡単な仕事ではありません。いえ、どんな仕事にも「変わりなく」、大変な仕事だと言った方がいいのかも知れません。でも戦場のような一日を終えて、トモコさんと一緒に、ふうと一息つくとき、私はやっぱりバリスタの道を選んでよかったと感じるのです。
大げさに言えば、私はこの世界に馴染めないのです。生きるためには、仕事をしなければならない。昔はその仕事が、農家なり職人なり、人の生活に密着していた。でもいつごろからか、私たちは人間というよりも、社会という機械じみたもののために仕事をするようになった。そこでは、ひと一人のする仕事は、他のたくさんの人のする仕事に紛れて、分からなくなってしまう。ベルトコンベアーの作業員は、まさにこの場合に適切な例なのです。たとえば今月百万円相当の製品を作った、といえば、なぜだか自分が、その百万円の一部分のような気がしてくるのです。私の髪、私の手、私の胸はそこにない。どろんと煙りが上がって、さびしい数字が残っているのです。これだけ経済を大きくしてしまった私たちには、「そういう仕事」も必要なことは、分かります。だけれど私は、自分を機械の部品にすることができなかったのです。全部、とはいかないまでも、なるべくものごとの初めから終わりまで、人間に手の届く範囲で仕事をして、お客様にお届けする。そういう仕事がしたいと考えたのです。
OL生活の三年目、私はそういうことを考え始めました。そしてトモコさんと出会います。でもその話は、また別のときにしましょうね。
じゃあ、またね。
マコ
2017年6月20日
朝つゆの小径
リコ。私の家から西へ西へ歩いていくと、清涼院というお寺があります。裏山が天然の雑木林で囲まれて、お寺の中では、鳥の声ばかりが聴こえるというような、とてもひっそりとしたお寺なのです。今朝、目が覚めると時刻は五時で、トーストの焦げ茶、紅茶のひとしずくのように茶色な雲のたなびきの下で、街はしんとしていました。私は出勤時間まであと四時間あると計算しました。するといい考えがうかんだのです。清涼院まで散歩に行こう。生活は、いつだって旅であるかも知れないのです。きっかけは、ほんの些細な思いつき、ことの運びの加減によって。
清涼院は人々の生活の音から切り離されたように、静かな森に囲まれていました。鳥たちの鳴き声を追いかけて、左に右に、声の主が移動している様子が聞き分けられたのです。空は薄墨色の雲に蓋をされて、梅雨がもう、来そうなことを告げていました。そういえば、大気の中にダイヤのように混じった水の気が、皮膚の上に感じられて、森の冷気で冷やされた空気は、寝起きの頭に気持ちよく触れました。私は鳥のように、境内の生き物の一つとなったように、じっと影の中に耳を澄ませていました。
寺院の裏手に回ると、孟宗竹の樹林があって、朝つゆに濡れた小径がゆっくり曲がってやがて寺院の入口に回る裏道になっているのです。枯れ草色になった竹の葉のクッションを歩くと、ときどきぎゅっとくぼんで水が出て来るところがある。そこは地下水の通り道になっていて、そこに紫陽花が植わっているのです。まずはカシワバアジサイ。私はこの花を見る時、夏の花火を思い出します。どんと大きく打ちあがる菊の花ではなくて、白い星々をまき散らしながら、ある方角へ撓(たわ)んでいく花火。それが、ひとすじ、ふたすじ、幾すじも、株の中から打ちあがっているようなのです。そしてむらさきの紫陽花。これはまだ、開花の時期には早くて、紫陽花のあのまん丸の、外側だけが開いている。それもまだ一輪か二輪だけがついている。これから梅雨が来て、この紫陽花たちが満開をむかえ、梅雨が明け、打ち上げ花火の夏が来る。花々の変化をみていると、そういう季節の移りかわりを、確かに感じることが出来るのです。そう、この地球全体が、明日に向かって行進(マーチ)を奏でているし、それにはこの私自身も含まれている。
こんな清々しい朝。楽しい朝。それを過ごせるほどこの街が自然に囲まれているということを、幸運だと思わなければなりません。いえ、これは自然が為すままに作り上げた景観ではなくて、長い年月をかけて作られた「人工の庭」なのです。こうした「人工の庭」がいつまでも残っていること。この街に自然が必要であると考え、生活の中に自然を取り入れた人たちが、何代も何代も、途絶えることなく居続けたということ。それは、考えるだけでじんわりと勇気を与えてくれる事実なのでした。
こうして私は、新しい朝を始めたのです。じゃあ、また。
マコ
2017年6月12日
猫のひとみ
旅は続きました。私は駅前どおりから、ケヤキ並木に入り、寺町をぬけて天神さんの前へ来ていました。街の光からふっと離れて、星々が急によく見えました。車の一台も通らない静かな道の上。私は耳を澄ませて、境内に危険がないかどうかを確かめたのです。遠くのほうから、水うみをわたる船の警笛が響きました。それで私は天神さんの鳥居をくぐり、お宮の中を進みました。拝殿で手を合わせ、誰のために祈るともなく祈りを上げます。そのときリン、と小さな鈴の音が聴こえたのです。私は振りかえって、暗闇に目が慣れるまで、そのおとのするほうを見つめました。猫でした。目が慣れて、月光に照らされた猫が、地面にべったりおなかをつけて、時々こちらを見ながらすわっているのです。私はつい、彼女(ただ、そんな気がしただけです)のほうへ歩いてみました。一度逃げると思うと、またすぐにすわりました。結局猫は逃げずに、私たちは並んで、天神さんの境内にふたりすわっていたのです。こうしてとなりにすわっているだけ、さわるのまではしまい。そう思いました。猫は時々私を見上げて、すぐにまた、何かを眺めていました。柔らかそうな頬毛に包まれた宝石のように透き通ったひとみ。いつしか私は、そのひとみの射す同じほうへ、視線をなげかけていたのです。私たちはいつ終わるともなく、この夜を見ていました。いったい猫ちゃんは、どのくらいの時間、こうしていられるのだろう。私には明日があります。明日の予定があって、それが今という時間をどこか、限りのあるものにしている。でもリコ、この猫はそういう風には見えなかったのです。猫のひとみの中には、今だけが輝く。昨日、今日、明日と流れていく時間の川の中で、彼女はいつも、しっかりと今だけを、強く、どこまでも深く握りしめている。そんな気がしたのです。
静かな夜。チ、チ、チとどこかで虫の声がします。月光はひのきの木々のあいだを縫って、地面にジグザグの影をつくりました。飛んでいく白鳥のようなカシオペヤが、星々のあいだに翼を広げているように光りました。その星座は、私たちが昔好きだった物語の世界へ、私の意識をさそっていきました。「カシオペイヤ」。未来を予知できる小さな亀、そして勇敢な女の子。二人は時間を盗む悪党たちと対決し、古い友だちを救い出す。時間にケチな、忙しがり屋の悪党たちの見張る街で、ちょうど綿密に張られた網の中の、ぽっかり空いた穴のような、「誰にも見つからない時間」の在り処を予言するのは、カシオペイヤ。そのカシオペイヤの役を、今夜、ある猫が引き受けてくれた。私たちは時間の穴の中にいました。そんな穴のなかに隠れ込むために、人は旅をしもし、また、生きているのかも知れません。
じゃあ、またね。
マコ
2017年6月5日
私たちが生まれてくるときに配られたもの
診察室に入った私は、パソコンの画面に映った私の身体の写真よりもまず、先生の表情を読み取ろうとしました。医師という職業は、いくらこういう修羅場を経験しているとはいえ、やはり告げにくいことを告げる時には、表情に一点の曇りが浮かぶものなのではないか、とそう考えたのです。
「あ、どうぞ。座って下さい」
先生の声に、ある種の軽やかさを私は感じました。そしてそれは、「よい兆候」のように思えたのです。先生はパソコンの画面を見ながら、「大丈夫です。良性でした」と言って、詳しく良性腫瘍である根拠を説明してくれたのです。私は自分の身体の断面図を眺めながら、「よく元気でいてくれたね。私の身体、ありがとう」と密かに感動し、その熱で今までの張りつめていた神経がほっと緩むような気がしました。「但し」と先生は続けました。「子宮筋腫は、経過観察が必要です。最低一年に一回は検診を受けて頂いて、筋腫が大きくなったら処置が必要な場合があることも、ご承知置きくださいね」
病院を出ると、まず家族に、そしてトモコさんに結果を報告しました。「よかったねえ、マコちゃん!本当によかったあ。これで、もう、心配ないね。本当によかった」トモコさんは喜んでくれました。そして「今だから言えるんだけどね、物事がいいように進もうとも悪いように進もうとも、マコちゃんなら力強く前へ進んで行けると思ってたんだよ」と言ってくれました。
私にそんな力があるとは思いません。でも、普段の言動を一番近くで見ていてくれるトモコさんから、そういってくれたことで、私は限りなく励まされました。どんな風になろうとも、何が起ころうとも、力強く前へ進んで行ける力。それはもしかしたら、私の特性というよりも、私たちが生まれてくるとき、配られる力なんじゃないかと思うのです。これがあるから、私たちはここまで、いろいろあったけれど、結局はそれなりに生きている。
今回の病気で、私の中に一つの「時限爆弾」がセットされたとも言えるでしょう。可能性は低いにせよ、その爆弾が爆発するかどうか、年に一回は検査をしないといけない体になってしまった。それでも不思議と、私は恐怖を感じませんでした。むしろ、一種の親しみをもってこの状況を受け入れる気持ちになったのです。
一言でいえば、今回の病気で、私は死の領分へ少しだけ近づいたのです。これまで死は、至る所に転がっていながら、私自身はそれを自分のこととして感じることが出来なかったのです。だから、私が死者に感じる全ての感情は、どこかしら偽善めいたところがあったのです。リコを失った私でさえ、そうなのです。でも今回の病気で、私は自分の内に、僅かな死の可能性を宿すことになった。このことは、私を死者の視点に近づける特異性として、これからの私を作っていくことになると思うのです。
ひとまず、よかったです。よし、もっと生きよう。うん、生きよう!
マコ
2017年6月4日
待つこと
リコ。長い間、書きませんでした。ごめんなさい。実は先日、貧血で起き上がれなくなって、ずっと病院にかかっていたのです。それはカフェへ出勤する日の朝のことでした。めざましがなると、眠りのうちから始まっていたであろう吐き気が、目覚めを合図に一気に襲ってきたのです。その波をさらに呑み込むようにして、全身のしびれがやって来ました。少しだけ、深呼吸して、全身をなだめすかして見ます。5分間が経ちました。それからトモコさんに電話をかけて、今日は休ませてもらうように言って、次にタクシーを呼びました。私はパジャマを着替えるのもそこそこに、病院で診察を受けたのです。まず第一の症状は貧血でした。でも念のためということで受けた検査で(生理も含めて、体内で異常な出血をしているのがそもそもの原因なのですから)、「子宮筋腫」であることが分かったのです。診察室でその言葉を聞いた時、「腫」という文字に連なる「腫瘍」という響きが、私をぞっとさせたのです。医師はなるべく慎重な言葉で「万が一、悪性のものである可能性を排除しておきたい。MRIで状況が確定します」と言って、MRIの予約と貧血の薬の処方をしてくれました。「子宮筋腫は珍しい病気ではないし、悪性に発展するケースは極めて少ない」と医師はやさしく言ってくれましたが、私の耳にはうまく入って来ませんでした。
私は帰りのタクシーの中で「子宮筋腫 悪性」と検索していました。こういう時は、ものごとを悪い方へ悪い方へ、考えてしまいがちです。スマホの画面に「子宮全摘出」という文字をみつけて、お腹がしめつけられるように思いました。いつでも何かがお腹の中にごろごろしているような気がする。それはなにか、黒っぽいもので、私ではない何者かなのです。「大丈夫、最悪である確率は低い。今はただ、やれる事を一つひとつやるだけ」そう、思いながら家路へついたのです。
「うん・・・・・・そう。マコちゃん、しばらく休みなよ。身体のこともあるし、気持ちも整えないとね。こういう時のための店長なんだから!もし一人で辛くなったら、カフェにお茶しに来てもいいし。ずっといたっていいんだから」トモコさんのやさしい声かけに、電話越しで涙を流しました。私はMRIの結果が分かるまで、店を休ませてもらうことにしました。あいにく市立病院の予約は立て込んでいて、検査は一週間先でした。私は、待つことを課せられたのです。
リコ。人生を左右するかも知れない大きな問題を前にして、私たちはどのように、待つことが出来るのでしょう?検査は明日です。私はこの一週間してきたように、今日もまた拝みます。温泉の谷の小さな神社で、誰のためでもなく祈るのです。私は今日も仰ぎ見ます。水うみのほとりの夜、あの星々の光。むかし、一人の詩人がやったように、野原の中、大きな空の下に眠る。そのようにして自然と一対一に向かい合い、ただ与えられるものに身をゆだねている。そういう気持ちで、私は待っています。
マコ