2017年4月22日

ハンドルの上の物語

リコ。このあいだイベントがあって、トモコさんと南の街へ行きました。地球から見れば少しだけ南。でもそこには春が早めにやって来て、白の、黄の、紅の花々が、イベントに華やかさを添えていて、それは穏やかな日曜日でした。太陽のもたらす、透明な光の膜の中で、それぞれの人々がそれぞれの人生のある一点で、同じ平和を楽しんでいたのです。

今朝仕事場へ向かうとき、車を運転しながら、街路樹が芽吹いていることに気がついたのです。それは、「芽吹き」という語の古代語で名付けられた神社のすぐそばでのことだったので、なおさら私は変に感動してしまったのです。私は近頃やっている遊びをすることにしました。家から仕事場までに見たことをテーマにして、小さな物語をつくるという遊びです。その物語は、このように始まるのです。

「つぼみたちは『生命のおおもと』と呼ばれるお母さんに呼び覚まされて、未だ冬の残る、寒空の下へ生まれました。

つぼみたちは、外の世界があんまり寒いのに恐れおののいて、固く、ちいさく、固まりあっていたのです。鳥が来ても、満月が出ても、つぼみたちはじっとじっと固まっていました。

幾日が過ぎました。やがて遠くに望む山の肌が、白い着物を脱ぎ捨てた頃です。一匹の燕がつぼみたちの座る樹の枝に留まって、『春の来る、春の来る』と鳴いて飛び立って行きました。

春が来たのは、その三日後です。最初に話しかけたのは春風の方です。

ーおお、どうしたい。そんなに寒そうに縮こまって!私が見た南の街では、みんな暖かそうに、光の膜の中で過ごしているものを!

つぼみたちは答えました。

ーああ、そうなのです。僕たちはお母さんに起こされて、寒いこの空に生まれたのです。ここはなんて寒いのでしょう。仲間がいなければ、生きても行けません!

春風は道草をさらさら言わせて聞いていましたが、やがて口笛のような声で言いました。

ーおお、それは大変だった。本当に。仲間がいることは大事なことだった。でもあなたたちは、一人ひとりで生きていくように生まれついているのです。私は旅の途中ですが、あなたたちにひとつ、プレゼントをあげることにしましょう。これは柔らかな毛布です。それでもあなた方が強く、たくましく生きるならば、これも立派な葉になって、あなた方を守ってくれるでしょう。

そうして春風は山の方から風を吹かしました。風は若緑色の葉っぱに生まれ変わって、つぼみたちをやさしくくるみました。

春先に風がつぼみたちを助けることは、本当に物事を分かっている人なら、よくあることだと知っているのです」

どうでしょう。今日作ったお話は、大体このようなものだったのです。またお話が出来たら、話させて下さいね。

マコ

2017年4月19日

見ようとすれば見えるもの

リコ。お隣さんの花が綺麗だって、リコにはもう言ったでしょうか。庭木にしては今まで見たこともない花で(いえ、ただ私が無知なだけなのかも知れません)、丸い緑色の葉っぱに、蜜柑の小さな一房みたいな花が白く、いくつもついているのです。その庭木の緑と白の対照が、いかにも春らしく目に映りました。

ところで今日は、少し変な話を書きます。でも、この話をすると最後のところがよく分かるから、がまんして聞いてください。よく郵便番号だとか、車のナンバーだとか、デジタル時計だとか、ゾロ目を見たと、しかも二回続けてみたと、大変意味ありそうに語る人がいます。それは、たしかエンジェル・ナンバーとかいって、天使から授けられたメッセージだと考えられているのです。

私は誰かの人生観を支えているかも知れないものごとについて、それを否定する気は全然ありません。でも個人的な見解を言うならば、それは奇跡でもなんでもなくて、偶然と必然が折り重なった至極合理的な現象だと言わなければなりません。その人が一日二十四時間のうち、何千回と目にする数字のうちに、たまたまゾロ目が何回か含まれているというのが偶然。そのなかで、観察している人の思想によって、ある配列の数字だけが特別印象に残ってしまうという必然。人はありのままの世界を見ているのではなく、見ようとしている世界を選択しているというからくりが、そこには働いていると思うのです。そして、見よう見ようとするほどに、その対象を感じとる力が強くなるのです。

なぜこんな話をしたのかというと、私は今、この世界から絞り出した、採れたて100パーセントの、ジュースのような美しさを見い出せる人間になりたいと思っているからです。それは何かしら、大自然の力に関係していて、晴れた空を眺め渡すときとか、大きな山に登ったとき、畑で土に触れるとき、花を見るときに感じるものです。あるいは日本人なら、お社に詣って手を合わせるときにも感じるもの。そういう力を、いつも隣にいてくれるお母さんのように感じて、生きていくことが出来れば、人はこの世界を肯定できるし、この世界を愛することが出来る。それは、本当の意味で強く生きていく土台になるのです。

でもその美しさは見えにくくて、表面だけ見ていては感じることが出来ません。ましてや、コンクリートによって大自然から隔離され、スマートフォンの小さな画面に五感を吸いとられている今の私たちにとって、それを感じることは、容易ではないのです。

日常の中に、もう一度その力を取り戻すこと。そして心の安定を得ること。それが自分自身にも必要だし、カフェのお客さんにも必要だと思うのです。そういう訳で、私はその見えにくい力を感じたいと思っているのです。

そのために必要なことは、もう言った通りです。エンジェル・ナンバーと同じで、その実在を信じて、見ようと準備すること。そうして準備している人だけに、この世界は強い生命力への扉を、開いてくれるのだと思うのです。

長くなりました。ごめんね。

マコ

2017年4月17日

この世界という舞台

リコ。なんだか寒さが逆戻りして、夜には冷たい風が吹いています。こういう時が、一番危ない。風邪をしないように、しっかり支度して布団に入ろうと思います。

今日は一日中、雨が降ったりやんだりしていました。カフェの窓から外を眺めると、一面の曇り空でした。それは曇り空とも言えますけれど、全体に霧が下りてきているという方が正しく、灰色の同質で大きな壁が、地平まですきまなく迫ってきているという感じでした。私はそれを見て、まるで舞台の背景のように思いました。

舞台の大道具が簡単なものであるとき、舞台の最後にかかっている薄灰色のサラサラ光る布が目立って見えるのです。だから今日はこの街を舞台にして、街の人たちが何かを演じているように思いました。みんな自分が主人公の、本当の劇を演じている。

でもこれは本当のことだと思います。みんな、生きてる理由なんて分からなくて、死んでいないことが生きていること、ただ先にある死を一日一日引き延ばしているだけだと思うのです。社会の側から言っても、一人の人間の生きている価値などまるで無視できるほどの価値しかもっていない。工場で作られる何かの部品で、何千回かに一回のエラーが起きる。人の命は、その程度の重みしか持っていないのです。その中でさえ、人は十分生きるに足る人生の意味を、見つけることが出来ると思っています。たとえ時間と多くの忍耐を必要としても。

そのときやはり人は、この世界という舞台で本当の主人公になれる。金銭的な豊かさとか、知識水準の代わりに、生きている意味を見つけた人の多い社会が、幸福な社会だと言えるのかも知れませんね。

私の場合、リコのことで生きる意味を見出だした。リコを背負って生きていくつもりです。

それでは、またね。

マコ

2017年4月16日

愛おしくなる花は

リコ。先日のことです。お城をとりまくお堀をぐるっと一周して、搦め手(お城の裏門のことですね)の方から、椿カ谷へ入りました。そこはお城の二の丸の中にあって、戦争でお城を包囲されたとき、油をとるために椿を植えたのだとか。私は大きく生えた椿の、トンネルのようになった道を歩きました。桜の名残りが見られるときで、観光客の名残り(これはちょっと、変な言葉遣い)と幾人かすれ違ったのです。垂れ桜は満開でした。染井吉野より、いくぶんかピンクの濃い、花をつけた枝がいくつもぶら下がっていました。椿カ谷は、そのあたりだけぽっかり空が開いて、薄明かるい春の日差しが、垂れ桜の場所を来訪者たちに教えていました。

でも、その日見た花のなかで、一番愛おしく思う花は、花韮(はなにら)でした。それは、花の散り始めた染井吉野と、藪に挟まれた小さなところに一群れ、ぽつんと咲いていたのです。柔らかそうな緑色の茎を(本当に、にらみたいに、でも、にらよりは短く)つんと天に向けて立て、その上に薄むらさきの、小さな花をつけています。それはこんな感じです。(注:花韮の絵。マコの作。)上の部分は星のマークのように見えます。花びらは六枚なのですけれどね。この星々が、風にゆれて咲いているとき、花びらの薄むらさきに、濃いむらさきの筋が入っているのを眺めるとき、私はこの花を愛おしく思うのです。垂れ桜や染井吉野のように、きらびやかな花ではない。むしろ、山里に咲く山野草のような、自然で何気ない感じのする、派手に訴えることのない花。世界にはそんなものがたくさんあって、目立ち過ぎるほど華麗なものたちの影で、こっそりその美しさを見せてくれる。そういうものの方が、本当に美しいし、本当に頼りになる。私はそう思ったのです。

花と言えば、菜の花の季節です。今日私は道に咲く花をひとつ、摘んでおきました。カフェに一輪挿して、残りは家に飾るつもりです。

じゃあね。春はこんなところまで、やって来たんですよ。

マコ

2017年4月8日

人間のいない世界の音

リコ。桜がきれいです。ひとところに咲いた桜は、ピンク色をした雲のようで、山に点々とまばらに咲く桜は、しらさぎの空に飛んでいるような桜です。カフェ・クッカの前の往来を人々が並んで歩いていきます。そこは、なんといっても桜の名所で、川沿いに何本もの桜が並んで映えているのですから。

桜のほかに、春の兆しはなんでしょう。今日私は、三羽の鳥が、鳴いて飛んでいくのを聴いたのです。これこそ春の兆しです。でも鳥の声なんて、春を探す気持ちで聴かなければ、聴こえてこなかったのかも知れません。人間の立てる音は、夏でも冬でも変わりなく、車や機械の音なんか、いつだってしています。それに慣れすぎてくると、もうその音しか聴こえなくなる。でももし人間がこの世に現れる前の音を聴くことが出来るとすれば、人間の立てる音は全く聴こえない訳です。風の音、木々の音、鳥、川、雨。人間がいないと仮定して、それらの音に耳を傾けてみる。そこには自然のリズムがあって、ちゃんと春を告げている。春の到来は、音にも現れていたのです。

マコ

2017年4月6日

胎動するように

リコ。この手紙も、考えてみれば半年以上が経ちました。その間、いろいろあって、特に春先は新メニューの制作でドタバタでした。リコにはもう、そんな些細な変化は起こらずに、ただ夜空の星のように、私たちとは違った、スケールの大きな時間を過ごしているのだなと私は考える、いえ感じるのです。だから星空を見るのは好きです。リコの体験している(そういうのが事実であろうとなかろうと)世界というものに、少しでも近づけるように思うから。

そして春が来ました。お城の桜もほとんど満開になって、今日は夜桜を見に行きました。平日なのに、たくさんの人。私はこの街の人が、遊び心を忘れていないことに、ほっと大きな安心をするのです。今日これだけの人に会えたのだから、この国はまだまだ大丈夫。どんな困難にあっても、柔らかで、強い、前向きな力を維持していられるでしょう。

桜の開きかけた蕾を見ていると、私の中の何かが共鳴しているような気になります。それは体で書いた、春、という文字。夜風に乗って桜の上を渡る春が、桜の蕾と私の中の、そう、例えば私の心臓の中の、生まれて初めて作られた細胞に向かって、あるリズムを投げかけている。それはたぶん、この世界にまだ一つの種類の細胞しか存在しなかった時代から、細胞に投げかけられた「生きよ」という呼び声。その子孫である桜も、そして私も、その呼び声を確かに聞いて、本人は分からないようでも、どういう風にかして感じ取っていたのです。その胎動は、生きていく力になる。私はもし人がいなければ、桜の幹に抱き付いてみたい気がしました。そうすれば、私と同じ、命の鼓動が、聞こえるはずに違いなかったのです。

マコ