もしかりに、間もなく、あの優しい夕暮れが灼熱の焔に代わるのだとしても。もしかりに、まもなくこの虫たちの声が爆音と叫喚とに代わるのだとしても。私は珈琲を淹れ続けるでしょう。
北の国が私たちの国を越えて、ミサイルを打ち上げました。このことが昨日、ずっと私の頭の中にこびりついていたのです。その思いはトモコさんも同じで、私たちは閉店後、ずっとその話をしていたのです。
ミサイルが発射されてから地面に到達するまで、時間としては十分とかからない。その間に事実を知り、避難場所を考え、そこまで移動する、ということが本当に出来るのでしょうか。それは、ほとんど百パーセントに近い人にとって不可能なことでしょう。私たちは確定的な危険を突き付けられている。辛うじて冷静に眺めていられるのは、「核の傘」に守られていると思えるから。ふだん、あんなに忌まわしく思う「核の傘」をありがたく思う。なんて無様な姿なのでしょうね。
これから先、私たちはこんな時代を生きていかなきゃいけない。いつも視界のはじっこの方に、黒い、死の影を認めながら。ふと気を抜くとき、あるいは何か不穏なニュースが報じられるとき、その黒い影は油を注がれた焚き火のように、私たちの視界全体を覆ってしまう。いつか生活そのものが、脅威にとって代わられる。
でも私たちは負けちゃいけない。私たちが生きているのは、いつかくるかもしれない未来ではなく、現在だから。私たちが生きているのは、特定できないどこかではなく、この場所だから。大事なことはいつも、半径一メートルの中で起こっているのです。その圏のなかで、ミサイルの脅威よりも見るべき美しいものがあるし、聞くべき嬉しい声もある。たとえば白い、可愛い花々。小さな子どもたちの楽しそうな笑い声。夕雲の、赤と灰のグラデーション。たとえ黒い影が、急速にその速度をあげて迫って来るにしても、私たちの生活は、それを乗り越えるだけの空間(スペース)の拡がりをもっている。それを、この世界への愛で満たさなければならない。世界を愛さなければならない。だから、私は珈琲を淹れ続ける。お客の日常のちょっとした隙間を、美味しい香りと芳ばしい味で満たすために。
政治に期待できるのかどうか、私には分かりません。ただ、日常だけが確かに私たちの豊かさをつくりだしているのです。
じゃあ、またね。
マコ