リコ。ずいぶん書きませんでした。私はこの間じゅう、たった一つのことに取り組んでいたのです。お風呂も食事も家でする一切の仕事も、その一つを「やり遂げる」ために計算されていました。ただ一つのことをやり抜くための、計算された生活。それはまるで、修道女のような生活だといっていいでしょう。
トモコさんが、春の新作を全部私に任せてくれるって言ったんです!これは、全身全霊をかけて、取り組むチャンスでしょう?私は出来うる限りのことをしたいと思います。まるで、それをするために生まれてきたかのように、お父さんとお母さんと、リコに今まで育てられたのは(断っておくまでもないことですが、私は今だってリコに育てられています)、すべてこのためだったというかのように。今、アイデアの大まかなところは出来ていて、それを少し寝かせてみようと思っています。少し寝かせれば、違った角度からものが見られると思うから。
なぜ私がこの世界に入ったか。それは自分が歯車の一つとなって、単純に誰かが楽しんでくれたら、そしたら私は生まれてきた意味があるって思ったから。その「楽しみ」の具体的な形が、カフェだったのです。それは私自身、ずいぶんカフェに救われてきた。だから、その時の気持ちを忘れないようにしたら、いつかカフェに来た人に「楽しみ」をあげられると思ったから。社会の歯車になって、誰かを喜ばせる。それ以上の意味が、この世界にあるでしょうか?
私はいつも、自分は同心円の真ん中だと考えています。たしか、似たような話をリコにもしたと思う。だけど大事なことだから、もう一度書きますね。私がいうまでもなく、この世界は残酷なもので満ちています。大人がいつのまにかなれていく世渡りの感覚と、子供たちが思う恐れや喜びの世界のどちらに立つかにもよることですが、私は子供たちの世界が正しいと思う。その世界から見て、この世界は残酷極まりないということです。そう。それを分かっている人はたくさんいて、社会と戦おうとする。私も一時は、それが正しいと思っていました。でも、分かってきたのです。本当に戦っているのはその中の一割、あとの九割は問題を見過ごすことの罪悪感を拭うためか、一時の英雄的満足のためだけに戦っている。それに残りの一割だって、本当の勝利なんて、実は覚束ないんだってことが分かったんです。一番簡単な例を言いましょう。第二次世界対戦の時代、地球にはもう数十億の人間がいました。みんな前の戦争を覚えていたから、もう、あんなバカなことは止めようって思ってた。それで戦争を止めようと頑張った人だって、きっと何人もいたはずです。それが本当に戦っている一割だけでも、すごい人数だったはずです。だけど何十億人がいて、誰も戦争を止められなかった。社会を変えるのって、それくらい絶望的なことなんです。それを分かってなお挑む人に言いたい。あなたの気持ちは分かる。けれどあなたは、戦争の時の何十億人の中で最も優秀な人よりもっと優秀なのですかって。
そういう現実を知って、私は戦うことを止めました。きっと私たちに出来るのは、一杯のコーヒーから始まるような、小さなことなのです。大きなことをいってみたって、それは自分という同心円が、どこまで届くかにかかっている。身の回りのことから初めて、同心円を大きくしていく。それが社会に届きそうになって初めて、大きなことを口に出していう意味が生じる。あるいはまた、ちいさな同心円でもいい。この宇宙に散らばる恒星と惑星の同心円の運動のように、この孤独な世界で小さな同心円が、ひとつひとつ、お互いをはげましあったり、インスピレーションを与えあったりしている。そして、何かのきっかけで、その同心円の運動に気づく人が増えていく。そのどちらかの方法でなければ、私たちは社会と正しく戦うことは出来ない。
びっくりするでしょ。私はこんな考えで、コーヒーをドリップしているのです。ふふ、面白いね。
ずいぶん長くなりました。それでは、またね。
マコ