2017年2月28日
目を養うように
精神と体を二つに分けて、精神も体だということを忘れがちです。何を言っているかというと、春メニューのことで散々根つめていた私は、働き過ぎて頭がクラクラになったのです。そこで休みたくなるのは意欲の問題と片付けてしまいそうになって、初めて気がついたのです。精神だって、使ったら疲れるよ。筋肉痛みたいに。
そう思うとすべてが楽になります。そうだ。走ろう。全然頭を使わなくていいように。そして私は、夜のランニングに出かけたのです。この街の灯りに対する感受性については、いつか話ましたね。夜に映えるオレンジのランプや、場所によってはガス灯。それらが一列に並んで、夜の街はまるで、一つのサーカス隊のようなのです。真っ暗な天幕にキラキラと宝石を散りばめて、その夜を長い夜にする、一団のサーカス隊です。だからランニングは楽しかったと言わなければなりません。
私はこの街を北と南に分けている、大きな川の上に来ました。ここに掛かる橋には、本物のガスランプで出来た行灯が設えてあります。そのゆらゆら揺れる火影に照らされて、海がありました。リコも知っているとおり、この街の水うみはその大きな川によって外洋とつながっているのです。だから、塩分の関係なのか潮目の関係なのか、水うみと川を分かつ境界線では、水面が海のようにうねっていました。その上を渡る。まるで船に乗って、波の中をかき分けているような気がしました。夜の水の、そのうねりは、少しの恐怖とたくさんの冒険心をくすぐります。私は一時、航海へ出たのです。
このようにして、夜の街はサーカス隊や大洋を渡る船になる。それは想像の力というものです。ここで思い出しておかなければならないのが、私たちには「本の小部屋」があったということ。この点、お母さんとお父さんは賢明だったと言わなければなりません。そう思いませんか。その「本の小部屋」には、たくさんの本があって、雨が降ったり、なんだか外で遊びたくない日には、私たちは小部屋で本を眺めていましたね。私たちの年齢に合わせて、絵本が多かった。中でも、仲良しのネズミが大きな卵を見つけてホットケーキを作るお話は、二人とも大好きで何度も読み返しましたね。私たちは絵本から、何を学んだでしょう。それは、目を養うこと。冷たい現実の中から、いつでも暖かい夢へ旅に出ることが出来るということ。いつか出会うだろうたくさんの辛いことの中でも、その夢の実在を信じられること。お母さんとお父さんが私たちに対してやったことは、それを本を通じて教えてくれることだったと思うのです。こういうことは、言葉でいったって伝わりませんからね。本の、想像の世界が私たちに教えてくれたのです。目を養うこと。その大切さに、今更ながらはっとさせられています。
それじゃあ、また。
マコ
2017年2月16日
孤独な同心円たち
リコ。ずいぶん書きませんでした。私はこの間じゅう、たった一つのことに取り組んでいたのです。お風呂も食事も家でする一切の仕事も、その一つを「やり遂げる」ために計算されていました。ただ一つのことをやり抜くための、計算された生活。それはまるで、修道女のような生活だといっていいでしょう。
トモコさんが、春の新作を全部私に任せてくれるって言ったんです!これは、全身全霊をかけて、取り組むチャンスでしょう?私は出来うる限りのことをしたいと思います。まるで、それをするために生まれてきたかのように、お父さんとお母さんと、リコに今まで育てられたのは(断っておくまでもないことですが、私は今だってリコに育てられています)、すべてこのためだったというかのように。今、アイデアの大まかなところは出来ていて、それを少し寝かせてみようと思っています。少し寝かせれば、違った角度からものが見られると思うから。
なぜ私がこの世界に入ったか。それは自分が歯車の一つとなって、単純に誰かが楽しんでくれたら、そしたら私は生まれてきた意味があるって思ったから。その「楽しみ」の具体的な形が、カフェだったのです。それは私自身、ずいぶんカフェに救われてきた。だから、その時の気持ちを忘れないようにしたら、いつかカフェに来た人に「楽しみ」をあげられると思ったから。社会の歯車になって、誰かを喜ばせる。それ以上の意味が、この世界にあるでしょうか?
私はいつも、自分は同心円の真ん中だと考えています。たしか、似たような話をリコにもしたと思う。だけど大事なことだから、もう一度書きますね。私がいうまでもなく、この世界は残酷なもので満ちています。大人がいつのまにかなれていく世渡りの感覚と、子供たちが思う恐れや喜びの世界のどちらに立つかにもよることですが、私は子供たちの世界が正しいと思う。その世界から見て、この世界は残酷極まりないということです。そう。それを分かっている人はたくさんいて、社会と戦おうとする。私も一時は、それが正しいと思っていました。でも、分かってきたのです。本当に戦っているのはその中の一割、あとの九割は問題を見過ごすことの罪悪感を拭うためか、一時の英雄的満足のためだけに戦っている。それに残りの一割だって、本当の勝利なんて、実は覚束ないんだってことが分かったんです。一番簡単な例を言いましょう。第二次世界対戦の時代、地球にはもう数十億の人間がいました。みんな前の戦争を覚えていたから、もう、あんなバカなことは止めようって思ってた。それで戦争を止めようと頑張った人だって、きっと何人もいたはずです。それが本当に戦っている一割だけでも、すごい人数だったはずです。だけど何十億人がいて、誰も戦争を止められなかった。社会を変えるのって、それくらい絶望的なことなんです。それを分かってなお挑む人に言いたい。あなたの気持ちは分かる。けれどあなたは、戦争の時の何十億人の中で最も優秀な人よりもっと優秀なのですかって。
そういう現実を知って、私は戦うことを止めました。きっと私たちに出来るのは、一杯のコーヒーから始まるような、小さなことなのです。大きなことをいってみたって、それは自分という同心円が、どこまで届くかにかかっている。身の回りのことから初めて、同心円を大きくしていく。それが社会に届きそうになって初めて、大きなことを口に出していう意味が生じる。あるいはまた、ちいさな同心円でもいい。この宇宙に散らばる恒星と惑星の同心円の運動のように、この孤独な世界で小さな同心円が、ひとつひとつ、お互いをはげましあったり、インスピレーションを与えあったりしている。そして、何かのきっかけで、その同心円の運動に気づく人が増えていく。そのどちらかの方法でなければ、私たちは社会と正しく戦うことは出来ない。
びっくりするでしょ。私はこんな考えで、コーヒーをドリップしているのです。ふふ、面白いね。
ずいぶん長くなりました。それでは、またね。
マコ